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仮想の排泄 | 2024.04.28

・春が終わってゆく!

・季節は誰に構うことなく、無遠慮に終わったり始まったりを繰り返している。この世界で最も自分を持っているのは季節である。大きくなったら季節になりたい。

・映画「STOP MAKING SENSE」を観た。Talking Headsが1983年に催したライブを撮影・編集した映像作品で、音声を含めたリマスターが行われている。

・いつか観なくてはならない気がずっとしていて、まもなく日本での公開が終了するタイミングに滑り込んだ形となる。スクリーンで観ることが出来て良かったとしみじみ思う。

・はじめて恵比寿ガーデンプレイスに行った。美しくも大袈裟な場所で、なんというかこう、「"人と豊かな暮らし"を体現しています!!!!!!!!!!!!!!!!!!」な匂いが充満していて、自分はここにいるべきではないという、特に意味のないバツの悪さを感じとりながらウロウロ歩いて、映画館に入ったのであった。


・10代から20代中盤で感受性はピークを迎え、あとは擦り減っていくだけなのかも、というよもやま話を2年前の記事で書いていたのだが、これはおそらく間違っていないと今は確信できている。原始的な感動はどんどんラベリングを含んだ論理立てに置換されていき、自らの中に棲むパブリックな集合知が言葉通りの現代的な感想をつらつら並び立ててしまう実体験が多くなってきた。

・一方でその感受性の落ち込みとクロスフェードするように、感受することへの興味・許容は少しずつ高度を上げてきている。なんとも無為な性分というか構成である。例えば「STOP MAKING SENSE」を18歳の自分が観たらどのような感覚に満たされるのか、確かめる術は無いが気になってしまう。

・このトレードオフを越えた先の情報接種にもきっとそれなりの意味がつくはずだと信じて、最近は頑張って活字を読んだりもしている。頑張れ!


・先日、大の大人が集って夜7時から翌朝5時までソフトドリンクを飲み続けながら大真面目に話をしまくるという会があった。

・数日前の出来事ではあるものの、もう若くもないのでそれからずっと薄っすら体調が悪いし、慢性的に軽微な躁状態になっている。しかしそれが良いのだ。おかげさまで溜まっていた企画書作りが多少スムーズに進んだ。色々なものを前借りることでしか人は前進できぬのだ……。

・自分は体質的にアルコールを摂れないため、「酔う」という感覚を知らないしお酒の場のコミュニケーションも真に体感したことはないのだが、それが無くとも10時間程もまあ飽きずにぺちゃくちゃできる関係性の人がいることと、自分のまるで学生の如き精神性の片鱗(大学に行ったことがないので雰囲気で言っている)に喜ばしいものを感じた。

・皆さんもよければ、ソフトドリンクで夜を明かしてみてください。けっこう良いです!


・近頃「よう言うた!」を手軽に欲しがるSNS定型ポストをあまりに高頻度で見かけるため、ちょっと笑ってしまった。

・例えば以下のような定型である(もちろん誇張しています)。

「炎上覚悟で、この際はっきり自分の意見を言います! 私は道端でうんちをする人間が嫌いです! 私たちは道端でうんちをする人間に負けない!」

・ここに「よう言うた! 私も似たものに遭遇した経験があるのですが、同じく許せません!」的な共感が連なっていく。

・逆に道端でうんちをする人間を好む奴なんて基本的に存在しなくないか? みたいなところはあるのだが、思うにインターネットがオープンになりすぎている昨今、コミュニティの統率に必要とされる要素である「仮想敵の設定とそれのぶっ叩きに帰する団結」がイージーに表層化しているのだろう。そりゃ炎上するものもしないので覚悟も何もあったものではない。意見というよりかは確認作業に相違ない。

・大切なのは「道端でうんちをする人間」なんて今日日見かけないし、「道端でうんちをする人間を好んで許せる奴」も同じく仮想であることを暗黙にみなが理解していなければならないことだ。ここで仮想を実存するものとしてしまうと、そこに残るのは虚無と妄信である。安易な啓蒙と共感には、愉快さと引き換えにそれ相応の代償が伴う。啓蒙をするな。

・ところで、これも一種の啓蒙と共感に値する可能性はありませんか?

・その言葉の意味するところを理解したのか、矢口は静かに目を閉じて踵を返し、林のなかの暗がりへとその姿を消していった。その後、彼の姿を見たものはいない。

  終
制作・著作
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 ⓃⒽⓀ

・この前食べてみて美味しかったお菓子です。

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