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自らを由とすること | 2024.5.7

・近頃、自由を考えている。

・自由であることを定義し認可される必要性が生じている時点で、その場にあるのはほんとうの自由ではないのだなと思う。思うようになった。

・そこにあるのは「自由であれ」という新たな縛りであって、その啓示を笠に着た、自由でないことの自由や曖昧さを許せずに、ただ後をついていくだけの盲信もきっと表出する。

・「自由であれ」と言った者さえも信じず、他者も場所も意図も解せずに、わからないものに相対する原始的で漠然とした自らを脊髄反射でよしとしてあげるところから、思考する自由は真に始まるのではないでしょうか。その思考を経た後に、それでもなおと行動するアクションこそが自由の行使に違いないのだ。

・「自由であれ」に含まれるポジティブなニュアンスだけを正しく抽出し言い換えるのであれば、「自分なりに考える“より面白い状態”であれ」となるのかもしれない。

・手を挙げてフリフリするとか、光る棒を決まったパターンで動かすとか、逆にそういうのを辞めろだとか、そういった音楽興行の作法(作法?)が云々という話題を目にする度にアーティストと一部のファンダム間に介在する自由がいかに不自由かを実感する。もっと死ぬほどどうでもよく自分なりに面白くあればそれが善い筈ではある。

〜友蔵 心の俳句〜

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