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アイドル化したゴジラを再び予測不能な脅威に原点回帰させた【映画「ゴジラ-1.0 マイナスワン」】

アマプラにてテレビ鑑賞してもアカデミーの舞台で視覚効果賞を受賞した意義は納得できる作品だった。個人的には視覚だけでなく音にもこだわりを感じさせられた。

音と視覚で存分にゴジラの恐怖を久しぶりに味わう作品だったと思う。

正直ストーリー自体はいうことはないが、ゴジラシリーズがアマプラに追加されたことで初代ゴジラの原点を垣間見ることができたのでその辺を語ろうと思う。

もしこれからゴジラ-1.0を見る人がいるならば初代を振り返ってみることを薦める。

あらすじ
ゴジラ七〇周年記念作品。太平洋戦争で焦土と化した日本で、人々が懸命に生きていこうとする中、突然現れた謎の巨大怪獣が復興途中の街を容赦なく破壊していく。残された名もなき人々に、生きて抗う術はあるのか。

ゴジラはそもそもなぜ生まれたのか?


もしこれからゴジラ-1.0を見る人がいるならば初代を振り返ってみることを薦めたい。

細かい設定にズレはあるがシンゴジラの系譜を受けて作られたマイナスワンも、原点である初代作の本来の制作意義に向き合った作品でもある。

初代ゴジラ作品が生まれたのは戦後10年にも満たない1954年だった。

ゴジラとはそもそも何かと言えば外れの島でただ生息していた恐竜の生き残りである。水爆実験による放射能を浴びた影響で変異して生まれてしまったのが災厄の始まりだった。

初代の作中の舞台も54年当時の日本を舞台にしており細かい年数は異なるが、マイナスワンと同じような戦後の復興の兆しが見える東京の最中に再び戦争のような恐怖が訪れて街が破壊されていくという話でもある。

初代の作品の雰囲気を観ても分かるが戦争が終わった当時とは言えまだ核実験も事実行われており、当時の肌感として核や戦争への恐怖は続き日本人の緊張は拭えていなかったと聞く。

アメリカとソ連の緊張状態に加え、1950年には朝鮮戦争も行われGHQも核を本気で使用するつもりでいた事実もある。

再び大きな戦争が起きれば核は間違いなく使用されるような雰囲気と、そうなれば人類は滅亡するという我々の肌感では計り知れないないような未来が現実的な予測としてあった時代だった。

50年代の映画を調べても「羅生門」や「生きる」「東京物語」など戦後の傷が癒えないまま家族や社会で生きることとは何かと問う映画も多い一方で、「渚にて」や「宇宙戦争」、「地球最後の日」など終末映画も異様なほど生み出されていたことも分かる。

そんないつ来るか分からない絶望が近くにいる時代の中で日本が生んだのがゴジラであり、予測できない日本の終末がついに具現化してしまった象徴になる。

初代ゴジラから読み取れる当時の日本


そういった時代背景のなかで当時の核兵器の脅威を暗示するのが元々のゴジラの生まれだった。

作中では「ゴジラ」という人間では何も認知できない生物に対して多様な人間の登場で多角的にとらえて見せる展開になる。

ゴジラが出てくる時間は作品の半分にも満たずほとんどがそうした多種多用に捉えていく日本人の姿や葛藤を見せていく。

国会で武器使用と破壊一択の女性議員に対して、危機管理を前提に研究対象としての保全と慎重な対処を提唱する学者、

ゴジラに一矢報こととなる化学兵器を密かに開発し再び人類に破滅をもたらすことになるのではと葛藤する科学者、そしてその真逆に水爆実験で生まれたゴジラを「神の怒り」として神事に祀る島の人々など反応と思考を多様に見せる。

予測不能かつ個人の力ではどうにもならないXにたいしてそれだけの議論の余地とシュミレーションする危機管理への余白がこの時代にはまだあったことが伺える。

結果的にはゴジラが再び東京に現れて破壊されてしまったことで研究された兵器により破壊することを選ぶが、その選択には複雑な個人の葛藤とどうにもできない諦めが混じったうえでの仕方のない選択であることが安易な必然性で歴史は成り立たないことも見せられる。

そしてゴジラと言う脅威に対しても奥行きを増していかせる。

この辺はシンゴジラに通じていった見せ方であり、東北の震災を機に再びゴジラの恐怖を現代思想を踏まえて蘇らせたきっかけだったと理解できる。


「ゴジラアイドル化」の危機を世界に周知させるマイナスワン


我々現代人にとって「ゴジラ」は世界中で街を踏み潰して人間界を破壊する映画界のアイドルとなってしまっていたことをそろそろ恥じなくてはいけない。

今やハリウッドでは映画映えするようにカラフルに光らせ、同じアイドル怪獣を混ぜてタコ殴りしあうアホ丸出し作品の象徴になってしまっている。

シリーズ化してしまうことはそういうことなので異生物格闘技映画になっても、顔が可愛くなってマスコット化するのも仕方のないことではある。

そこでもう一度時代の世相を象徴する脅威として見事に国民の視点を戻させたのがシンゴジラであり、

それを勇ましく継承し現代技術でこれまでかと五感で恐怖の象徴として呼び戻したのがマイナスワンゴジラだった。

ゴジラがつまらなくなったのは、ゴジラの動きや本能を人間が予測できるようになってしまってからだと言う人もいたがその通りだと思う。

人間が迫りくる恐怖や危機を予測し、モンスターに対して共感するようになってしまったらそれはもう危険なものでもなんでもなくなりゴジラが登場する意味はもうない。

初代の熱意とはかけはなれたゴジラを再び市民の生活を破壊する舞台に立ち、不条理な世界の象徴として呼び戻しているのが現代によみがえった2作だった。

アメリカが今回のマイナスワンの受賞でその危機を受け取っているかは期待できないが、日本人だけでも本作の映像で「ゴジラ」という脅威を通じて思考する本能を呼び戻すべき周期に再び来ていると思う。

マイナスワンゴジラは戦後の隣にあった絶望を晴らせる恨みの象徴にもなった。だから破壊以外の一択以外だれも考えられる余裕も議論も生まれない。

破壊のすべも最後は犠牲も前提にある特攻になってしまう。そこで「生きる」選択を優先し脱出装置をつけたのが彼らの進化だったが、

過去と同じ選択を繰り返してしまうことは現代作られたシュミレーションの限界としてもあり得ると思った。

いまだに過去の歴史に刻まれる選択に至るまでの資料は国民に明かされていないものも多いため我々日本人はそういった過去を再びシュミレーションすることが下手くそだと言われている。

不条理な暴力によって生活が破壊される脅威の音は確かに遠くから聞こえてきてしまっている世相において、

結果的に同じ選択になるにしてもささやかな想像や議論が生まれる作品がゴジラを通じて更に生まれてほしいと願う作品でもあった。









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