見出し画像

変態映画マニアしか観ない7時間18分映画「サタンタンゴ」を解説

上映時間7時間18分に及ぶこの作品は見るだけでも勇気のいる所業。

ストーリーで縮めればザっと3時間程度になる話だが、編集カットで作られた近年の映画作品という概念からはかけ離れ、人生を映し出したと言うこの映画で忘れかけている映画表現を思い出させるデトックス体験になるだろう。

独特のテンポと間で話が全く掴めなかった人のために解説としてまとめておく。

あらすじ
ハンガリー、ある田舎町。シュミットはクラーネルと組んで村人達の貯金を持ち逃げする計画を女房に話して聞かせる。盗み聞きしていたフタキは自分も話に乗ることを思いついた。その時、家のドアを叩く音がして、やって来た女は信じがたいことを言う。「1年半前に死んだはずのイリミアーシュが帰って来た」、と。翌日、イリミアーシュが村に帰って来る。彼は村にとって救世主なのか? それとも?

舞台は冷戦直後の1940年代のハンガリー。秩序もなく貧困で退廃した田舎村にスポットをあて社会主義時代の批判をテーマに描かれた作品。

フタキが村人の貯金を持ち逃げする夫婦二人の作戦を盗み聞きして話が始まる。そしてあるはずのない聖堂の鐘の音が聞こえ始めその夜逃げに微かな希望をいだいたまま、死んだはずのイリミアーシュが返ってきたという話を聞かされるのであった。

話はこの田舎村の村人と帰ってくるイリミアーシュの思惑の群像劇で進んでいく。

ここにいる村人はとにかく貧困で希望がなく、仕事は散らかったまま毎日大人は酒とセックスに入り浸れることしか楽しみがない。

第一部でイリミアーシュが役場に赴き警察に仕事に今までついていないことを諭されるシーンがあるが、彼は「労働することは負けかな」と言い張り話を折る。これは夜逃げを企てるほどの村人同様、ほとんどの人間が労働者として生きることに希望が何も見えないほどの格差の情景を物語っている。

国家が土地や資本を民衆に平等に管理することを目指した結果、市民は自由にはなったが搾取する側に利益が全て流れて弱者は切り捨てられる構造が生まれてしまった。その結果無秩序と暴力による財と支配の奪い合いだけがこの村には残っていったことを露骨に表現されていく。

第三部では大人だけではなく村にいる少女にスポットをあてこの映画の象徴的な場面となっていく。母親は身体を売り、兄には金を奪われて邪険にされている孤独な彼女は粗相をした子猫をいじめることしか楽しみがない。

最終的には無垢に子猫をころしててしまうが彼女にとって支配できる弱者はあの子猫しかなくそれほどまでにこの村の心までも貧困になっている姿が強烈に表現されている。

その後少女は行くあても無く子猫の死骸とともに大雨の中酒飲み場を覗き酒に酔ってタンゴで踊り狂う大人たちを眺める。大人はそんな少女の姿には全く気付かず踊り、店から出てきた医者に声をかけても余裕がないため怒鳴られる始末。

退廃した村の雨と大人が楽しそうに踊り狂う対比、少女がそれを見つめても誰もヘルプサインに気づかないというセリフのないあの長回しのシーンは、この村の貧困である皮肉を全て映し出した映画全体の象徴的な場面である。

そしてその後おそらく全てを悟ってしまった少女は猫をころしたものと同様猫いらずを飲んでこの世を去るのである。


イリミアーシュとは何だったのか?

自ら命を絶った少女が出てしまったことで村に帰ってきたイリミアーシュは村人を集め、このようなことがないよう手本となる農場を村の外れに作ろうと演説をする。

そしてその農場を作るのに必要な資本のために巧妙な言い回しで村人の全財産を集めさせたのであった。そして結果的に彼が放ったことは全て詐欺に終わる。

夜逃げをして支配側に回ろうとした村人の企ての合間にイリミアーシュが現れ更に大きな支配側の人間が現れるという負の連鎖が描かれる。

夜逃げの作戦に乗っていたフタキでさえイリミアーシュが帰ってくることを、キリストが舞い降りたように心待ちにするほど彼には生まれつきカリスマ性があった。

この映画のもう一つのテーマは「移動」である。

当時のハンガリーでは他の国に移動することは固く禁じられていた。社会主義国家としてはとにかく少ない人口と安い労働を囲い込むためには当然の策でもある。

そんな中自在に他の町へと移動し帰ってくるイリミアーシュは息をひそめて夜逃げを企てる村人とは対比の存在となっている。

村人が簡単に彼の口車に乗せられたのも彼が移動によって得たよそ者の文化を持っていたことで軽快な言葉と共に放つ言葉は全てが希望に思えてしまい、

村の外れに「移動する」ことによって作るという手本となる農場は「希望の楽園」にしか感じられなかったのである。

村人から見れば彼は教祖様で、切り捨てられる民衆にとって最後は彼による革命しか希望はない。

その後楽園の移動についてきた村人は途中でイリミアーシュを初めて疑いだす。しかし彼が開き直り、疑ったものを突き放すことによって更に信仰を促し最後の希望の綻びとして村人はついていき続ける。

イリミアーシュの帰還は村人らの閉そく感を全て浮き彫りにしていく存在だったともいえる。


終わらない支配の連鎖と鳴るはずのない鐘

イリミアーシュは村人を騙して結局バラバラに街に住まわせ「警察のスパイ」として警察に告発する。第1部で警察に求められた村人の観察を利用した彼の手口だった。

彼は告発するため村人個人についての報告書を書いて警察に送るがこの文書も過剰で文学的過ぎるために警察に改ざんされてしまう。どんなにイリミアーシュが優秀でも彼も信用されず利用される負の連鎖を意識的に描いたシーンと思える。

また唯一逃げ出したフタキへの警察の生きざまと解釈が外側からみたこの村人たちとイリミアーシュの語りでもありそのまま終盤へ向かっていく。

最後の章では1部で酒浸りになっていた村の医者にスポットがあたる。

彼は酒を買いに酒屋に行ったが帰路で倒れて入院し、イリミアーシュと村人の移動に追いていかれてしまった唯一の村人だった。

すっからかんになった村を練り歩き唯一導かれるように移動してついた先は聖堂の鐘。そこでは「トルコ軍襲来」と叫ぶおじさんの姿を見て家に帰り窓に板を取り付ける。最後に「フタキはなるはずのない鐘で目覚める」と書き出しながら終わっていく。

鐘はあるはずのない希望ではなく絶望の象徴として鳴り響くこの映画らしい解釈。窓に板を取り付けることで鬱屈した村の閉そく感をおじさん一人が体現し、この物語が終わらないことを示唆して終わっていく。円環の輪は回り続けるというのがこの映画の詩的なオチだった。


物語だけで語っても他人には薦めようとも思わない、大して面白くはないけど映画体験としては密かに留めておきたい正にマニア向けの作品である。

個人的には絶望しながらも酒に酔って踊る酒場の場面と少女の章、イリミアーシュの章ぐらいしか映画としては面白くはない。全体を如何に映画表現として楽しめるかぐらいしかないだろう。最後の辺りは流石に蛇足に感じる人も多かったと思える。

社会主義時代と言えど一極に資本や人々が集中した結果こういう街ができあがるという設定としては面白く見れた。

現代映画のアンチテーゼとして物好きな人は体験してみればいいかと。ダメな時は「今日の俺はタンゴだ」とつぶやきはじめるかもしれない。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?