悪魔が神父に憑依する「お決まり」の訳が初めて解明される【映画「ヴァチカンのエクソシスト」】
話題だった映画がアマプラに入ったので早速観た。
ここにきて王道のエクソシストモノが最近は復活してきているがここでもう一度描く意義を感じられる作品が増えているのでとてもいい傾向だと思う。この作品もよかった。
初代「エクソシスト」から続く神父が最後に悪魔に取りつかれて終わるあのフォーマットは理にかなっていたものだと今更ながら分からせてくれる作品だった。
それまでの悪魔映画では主に三点の行動を繰り返し人間や物に憑りついて目的を果たそうとしていることを描くことが多かった。
1出没 出没して恐怖を味わせることで人間の心を弱らせていく
2攻撃 物や人をポルターガイストによって攻撃していく
3憑依 憑依して人を殺していくことで魂を奪っていく
この原理で行動し人間の魂を奪う目的を果たすわけである。
そして憑依には魂の許可がいるために基本的に物心がついていない赤子や思考判断のつかない少年少女に取りつかれやすいのである。今作でも父親の交通事故の死の隣にいてから弱っている少年が憑りつかれて始まる。
これまでの多くの作品は憑りつかれた少年と家族に向き合いながら神父が三点の行動をしてくる悪魔と対話し、バトルと言う名の祓いをしていくところを描いていくのだが、
今作ではその上に神父に対しての過去の罪悪感をかぎつけて優位に立とうとすることを中心に展開されていく。
要は物理的に現象を起こして家族らに恐怖を与えるのではなく、
悪魔としての最終的な目的のために神父に対して魂を弱らせるために過去の罪の幻覚を見せるということがこの作品の一貫した展開だった。
それは最終的な目的を嗅ぎ付けられないための騙しであるともガブリエーレは述べている。あの家族を怖がらせているのはミスリードの一つでもある。
彼らはその最終的な目的を修道院の過去や教典から神学的観点で推理していき祓っていくという悪魔と神父の関連性について埋もれていた話を明かしてくれる。
悪魔が神父に憑りつく最終的な目的
今作はヴァチカンにある修道院を修繕しようとして放たれてしまった悪魔アスモデウスについて描かれた話になる。
その修道院の地下には1400年代のスペインのカトリックの拠点であり、そこで改宗を促すための拷問なども行われていた場所にアスモデウスは眠っていた。
悪魔はそもそも神が最初に創った全能を持つ天使に対し抵抗しようとして「自分こそが神」だと勘違いし、対になる存在として生まれたという解釈が基本的にある。
神が創る物質的な世界に信頼を持たず自己利益だけ求めて堕落した霊的な存在の天使なのである。
その解釈に関連するようにこの話では、カトリックの修行僧に当時の悪魔は憑りつきそれから神として現世のヴァチカンで支配していたのがアスモデウスだったということである。
その裏ではカトリックの歴史を辿るように神となった悪魔の教えによって虐待や拷問が行われていたという話に繋がっていく。
悪魔が憑りつかれていると指摘されても精神疾患として解釈されやすいのはその隠蔽の名残もあったのだろう。
ガブリエーレは自分の怠惰によってそれに加担してしまったような過去の罪を悔やんでおり、ローマ教皇から仕える「司祭」としてアスモデウスが再び神の存在として憑りつくにはこの上ない存在でもあったわけだった。
ただその対策としては一つは悪魔の声を無視すること。そしてもう一つが「懺悔」によって神の赦しを得ることが最大の理由となり悪魔の思惑を防いでいた。
ちなみにあの赤い鳥はキリストの文脈でいくと枢機卿でもあるらしく、ロザリアが悪魔の仕業だと訴えた時やガブリエーレの過去に度々登場するのも冒頭で悪魔の存在を否定する枢機卿に原因があった象徴にも思える。
見方を変えると「悪魔」という宗教的観点の違いによる宗教裁判のような見方にもなってくる。
悪魔は悪魔の存在を否定するほど喜ぶが、その観点と判断に一番近くにいるのは神を愛す神父である。
個人的には悪魔が祓い師となる神父に最終的に憑依するのは消えることのない継承の矛先でしかない話だと思っていたが、
自分こそが神として現世に存在することが最終目的だとすれば、悪魔は神父にこだわり、神父は身代わりになって犠牲になるという「エクソシスト」のフォーマットがなぜ起きるのか理解が追いついてくる話だった。
ホラーやバトルが単調で不評な意見も見られたがこういう宗教的観点と推理が主な話だったからだろう。
こういう昔にはない見えないものに対して知見を高めようとしてくれる王道の復活は面白いし、シリーズ化してほしい。