文章投稿の「自分にあったプラットフォームとは?」
自分にあったプラットフォームを考えるには、何のために文を書くのか?ということを考えなければならない。
自分の主張したい、人に知ってほしい、という気持ち、その対象がどのくらいの広さなのか、主張やコンテンツの内容が音楽なのか情報なのか、等によって変わってくるだろう。
では私の場合はどうだろう。
何のために文を書くのか?
と言われると、思ったほど理由は浮かばない。
昔はもっとわかりやすく、自らの意見を主張したいという欲求があった気がする。抑圧と矛盾、そしてそれらの問題を解決するべき、という目指すべき場所である。
ところが、最近、それほどそういうものを自らの内部に感じなくなってきた。
なぜか、と考えてみたが、主たる理由は「主張に対する欲求」というものに以前より気軽に触れることが可能になったこと。
SNSというものは新しいコンテンツであったのがもはや常態化してしまっていて、これに触れるということが当たり前になっている。こちらで瞬発的な主張はうんざりするほど目にすることができる。
もともと主張が好きな人はいたのだろうが、そういう人のものがより目立ちやすくなっている。
私はそういう、大声で叫ぶタイプの主張がしたいんじゃない、主張というものがそういうものなら、別に主張しなくてもいいや、と考え始めていた。
そして、今でもその考えのままである。だが、「何もしないよりはマシかな」という、非常にドライな理由で、なんとなく自分のサイトを立ち上げ、そこに気が向いたら文を書き、今こうしてnoteを試してみている。
何を望んでいるのか。曖昧にしかない。
プラットフォームを変えれば閲覧数やその閲覧者の傾向に変化があるだろう。そういう打算はもちろんある。もしかしたら誰かにより読んでもらいやすくなるかもしれない。それはありがたいことだが、読んでもらってどうする?
それは私の決めるべきことではないのかもしれない。
曲でもそうだが結局何が人の中で巻き起こるかはわからない。わかるような仕掛けは他の人がさんざんやっているだろう。それはそれで面白いが、私は自分の中の違和感を抱えたままの文章に徹することでしか、文章への興味を保つことはできそうにない。
今後、noteにもたまに何かを書くかもしれないが、何も決めてないので、まずは、この記事を、ということで。
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