『麦の穂をゆらす風』 リアリズムとアイデアリズム

2006年制作 監督:ケン・ローチ
イギリスの名匠ケン・ローチによる、カンヌ国際映画祭パルムドールに輝いた人間ドラマ。20世紀初頭のアイルランド独立戦争とその後の内戦で、きずなを引き裂かれる兄弟と周囲の人々の姿を描く。アイルランド伝統歌の名曲「麦の穂をゆらす風」にのせてつづられる、歴史と運命に翻ろうされた人々の悲劇が胸に迫る。
1920年アイルランド、英国による圧政からの独立を求める若者たちが義勇軍を結成する。医師を志すデミアン(キリアン・マーフィ)も将来を捨て、過酷な戦いに身を投じていく。激しいゲリラ戦は英国軍を苦しめ停戦、講和条約にこぎつけるものの、条約の内容をめぐる支持派と反対派の対立から同胞同志が戦う内戦へと発展する。

「麦の穂をゆらす風」を観るのは、4度目になる。
さすがに4回も見るのだから、ただ受け身で鑑賞するのではなく、テーマを持って観てみたいものである。

「なぜ戦うのか、その意味がはじめてわかった」

ラストで、主人公デミアン(キリアン・マーフィ)が、独立義勇軍のリーダーである兄テディ(ポードリック・ディレーニー)の命で銃殺される前夜の独白シーン。彼が最後に言うセリフである。
デミアンは、いったい何が「わかった」のだろうか。これは難問だ。
1回目は、兄が弟を銃殺する悲劇に圧倒されて、セリフさえも記憶に残らなかった。
2回目は、セリフは印象に残ったが、強い違和感があった
3回目、やっぱりわからない。
デミアンは、いつ、どうやって、何がわかったのか。それを考えることが今回の鑑賞テーマであった。

偶然、チェ・ゲバラの二部作を観たことが幸運だった。
「ゲバラは、なぜボリビアに渡ったのか」を考えることが、デミアンのセリフの意味を考えることとよく似ているのではないかと思ったからだ。
ゲバラは、ボリビアで自分が死ぬことを間違いなく覚悟していた。自らの命を捧げるだけの価値を、何かに見いだしていたに違いない。
それは、デミアンが「わかった」ことと同じではなかったか。

戦争が悪であることを否定する気はないが、歴史を振り返ってみると、数少ない「正義の戦争」というものがある。
ホーチミンが率いたベトナム独立戦争、カストロやゲバラによるキューバ革命、ナチスに対するレジスタンスなどがそれにあたるだろう。「麦の穂・・・」を観ると、ケン・ローチがアイルランド独立戦争を「正義の戦争」と考えていることは容易に理解できる。

「正義の戦争」には、「リアリズム(現実主義)」と「アイデアリズム(理想主義)」の二つの側面がある。
勝つためには、リアリズムが必要である。テディはその象徴として描かれていた。
武器調達の資金を得るために、市民裁判で有罪判決を受けた高利貸しを釈放したシーンが、その典型だろう。
カストロもソビエトに支援を求めた。毛沢東も蒋介石と手を結んだ。薩摩と長州も私怨を越えて同盟した。
テディのリアリズムは、アイルランド独立戦争に絶対不可欠な要素である。

戦いを続けるためには、高い理想も必要である。デミアンはこちら側の人間である。
凄まじい葛藤を抱えながら、幼なじみを処刑する引き金を引いた。
「僕は、解剖学を5年学んだ。それなのに、友人を殺す」
「そこまでする価値がある戦いだろうか」
吐き出すように、そうつぶやいた場面は、何度観ても胸が押しつぶされる。

リアリストは、いま、直面する戦いに勝つことに目が向く。その戦いが困難であればあるほど、理想の姿は視界から消えてしまう。勝つために、理想を忘れる。

理想主義者は、遠くばかりを見つめる。そして多くの人間が、理想への道程で命を落とす。ゲバラも、吉田松蔭も、坂本龍馬も。

リアリストと理想主義者が手を携えることで「正義の戦争」は成就する。リアリストのカストロ、理想主義者のゲバラの二人のリーダーが揃って、キューバ革命は成し遂げられた。休戦までのテディとデミアンの関係は、カストロとゲバラの関係と相似形であろう。
しかし、「正義の戦争」の苦渋は、そこから始まる。
なぜならば、いつか二人は、現実と理想のどちらかを選ばなければならない時が来るからである。
カストロは、新生キューバの国づくりのために、小さな理想をいくつも捨てたに違いない。逆にゲバラは、上級幹部の地位と生活を投げ捨て、理想を追い求めた。

ケン・ローチは、どちらを選ぶ人間なのか。
社会主義者を公言して憚らない彼は、冷戦終結後の社会主義の退潮現象に対しても、まったくぶれることがないと言う。ソ連も、中国も、恐らくはキューバも含めて、これまでに理想的な社会主義がこの世に成立したことなどなかったではないかと喝破する。
社会主義という「理想」が敗れたのではなく、「現実」の作り方を間違えてしまったことが問題なのだと考えているに違いない。
ケン・ローチは、一点の曇りもない理想主義者であろう。

「麦の穂・・・」のラスト場面では、兄が、デミアンに最後の説得を試みる。兄弟の情愛を訴えかけて、仲間の居場所を吐かせようとする。
兄のおどおどした態度に対して、デミアンの眼力は凄かった。強烈な意思の光を放っていた。完全にイッた人の目だ。
「理想」への殉教者として死に逝くことを決めた人間の姿である。

「誰と戦うかはすぐにわかる」
「何のために戦うかを考えろ」

映画のラストは、今は亡き盟友が遺した言葉をデミアンが噛みしめる場面が静かな山場として用意されている。

「なぜ戦うのか、その意味がはじめてわかった」

「理想」に殉ずることを決意した彼は、暗い独房の静謐の中で、ひとつの到達点に達したのではないか。

いまも、世界のいたるところで、戦争とは違う形ではあるけれど、「正義の戦い」は起きているのかもしれない。もうひとりのテディともう一人のデミアンとの相克があるのかもしれない。そしてたくさんのデミアンが死んでいるのかもしれない。
「正義の戦い」である以上、その悲劇は避けられない。
いつの日か、世界のどこかで、デミアン的人間の数が、テディ的人間の数を上回った時、はじめて何かの「理想」が実現する。
ケン・ローチの信念はそこにあるのだと思う。

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