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静かなる威容

鎌倉建長寺には、樹齢八百年の柏槙の大木がある。
蘭渓道隆禅師のお手植えという話が伝えられているが
建立の前からこの地にあったのではないかという説もある。
もはや事実は誰にもわからない。

柏槙は何百年もそこに在って、何も語ることはない。
大木を囲むように伽藍が配置され、参拝者は木陰で涼風に憩う。
鳥たちが羽を休め、虫たちが巣くう。

大木に見守られて数多くの雲水が修業を重ねてきた。
大木は彼らの汗や涙も知っている。

八百年変わらず、この地に立ち続け、栄枯盛衰を見つめ
きょうもまた、静かに威容を保ち続けている。

大道氾として、其れ左右す可し。万物之を恃(たの)みて生ずるも、而も辞せず。功成りて名を有せず。萬物を愛養して主と為らず。常に無欲なれば小と名づく可し。萬物之に帰して、主と為らず。名づけて大と為す可し。是を以て聖人、終に自ら大とせず。故に能く其の大を成す。  
『老子』(任成第三十四)

犯(はん):水が溢れて広がるさま
左右す可(べ)し:右にも左にも、あらゆる方向に流れていくこと
恃(じ):自然にまかせて干渉しないことの意
 

大いなる「道」の働きは、目に見えないが確実にこの世に溢れているものだ。左から右へ、右から左へと行き渡っている。この世の万物は、全てが「道」から生まれてきているが、「道」はそのことを自ら言おうとはない。
もの事を見事に成功させたり、人間を成功者にしたりしても、自ら名乗り出ることはない。
自分の生んだ万物に愛情を注ぎ、成長養育させているのだが、その主人になって自分のものだといわんばかりの要求は一切しない。
つまり無欲な存在なのだ。欲が大手を振るって闊歩している現代では、無欲の存在など少しも目立たない。小さな存在である。
万物はやがて、一生を終えて「道」に帰っていく。しかし「道」は自分が主人だとは言うことはない。とてつもなく心の大きな存在である。
「道」の在りようを自己の在りようにする人も、同じように自分から自分を大きな存在とすることはない。だからこそ他人から尊重され、大きな存在になるのだ。
『老子 道徳教講義』田口佳史

【解説】
冒頭の「大道氾として、其れ左右す可し」という一節は、私の座右の銘である。毎年末、手帳を新調すると、最初のページにこの言葉を書き込むことにしている。

生命を生み出し、育み養う大河のように、あらゆるものを見守り、受け止め、遍く静かに流れゆく。組織の長として、家族の長として、そしてなによりも人間として、こういう存在でありたいと願う。

さて、鎌倉の建長寺は、私が最も好きな寺である。鎌倉五山の一位に据わる歴史ある大寺院だが、境内のほぼ中央にある柏槙(びゃくしん)の老木に気づく人は少ないかもしれない。

建長寺周辺は、かつては地獄谷と称された葬送の地であった。墓地というよりは死体の捨て場といった方がふさわしい寂しい場所だったという。
この地に寺が開かれた時、この樹はすでにそこにあったという説もある。だとすれば、この老木は、死人の骸が散在したこの地に、禅宗の大寺院が築かれていく様子をじっと見ていたのかもしれない。

老師のもとで何百人もの雲水が修行する姿を、度重なる戦乱や天災に伽藍が焼き尽くされた光景も、朝から夕方まで続く観光客の喧騒も、黙して静かに、変わらぬ姿で受け入れてきたのかもしれない。

建長寺を詣で、柏槙の木陰で憩うひととき、「大道氾として、其れ左右す可し」という言葉を思いだすのである。

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