『西鶴一代女』にみる田中絹代の生き様

1952年制作 溝口健二監督
奈良の町はずれの荒寺の門前にたたずむ惣嫁と呼ばれる売女三人。その中に、老い疲れた顔を厚化粧にかくしたお春(田中絹代)の姿もあった。乞食の焚火に明るんだ羅漢堂に並ぶ仏の顔に、お春は過去の幾人かの男の面影を思い浮かべるのだった。--若く美しかった御所勤めの頃のお春に懸想した公卿の若党勝之介(三船敏郎)は、彼女をあざむいて寺町の中宿へつれ込んだところを、折悪しく役人にふみ込まれた。お春とお春の両親は洛外追放、勝之介は斬首に処された。宇治に移り真葛原の出振舞に踊ったお春の美しさを見込まれ、江戸松平家のお部屋様に取り立てられ、嗣子までもうけたお春であったが、側近の妬みに逢って実家へかえされ、お春の流転が始まった。島原の廓に身を売られ、田舎大尽に身受けされようとしたが、彼が偽金作りと判り、笹谷喜兵衛(進藤英太郎)の家へ住込女中となった。それも前身が判ったことから喜兵衛の女房お和佐(沢村貞子)に嫉妬され追い出された。扇屋の弥吉(宇野重吉)の妻になり平和な生活に落着けたのもつかの間、弥吉の急死で、笹屋の番頭文吉(大泉滉)の世話になったが、文吉がお春のために店の品を盗んだことが発覚、文吉につれられ駆け落ちして桑名で捕えられた。それ以来、宿屋の飯盛女、湯女、水茶屋の女、そして歌丘尼から、老いさらばえて、辻に立つ惣嫁とまでなり果てたのだった。ふと自分の名を呼ばれ我にかえったお春は、老母ともから、松平家の呼出しを告げられた。もしや自分の生んだ子がとの喜びも裏切られ、お春は卑しい女に堕ちた叱責を受け、永の蟄居を申渡されたばかりであった。やがて嵯峨の片ほとりに草庵を営む老尼の姿が見られた。お春であった。
(映画.com)

まずはこの映画が封切りされた昭和27年という時代がどういう色彩をなしていたのか、主な出来事を確認してみよう。
なんといっても、前年に調印された講和条約が発効した年であることがあげられる。これにともないGHQは解散され、戦後6年を経て、日本はようやく独立国の地位を回復した。
ラジオでは『君の名は』が大ヒットし、白井義男が日本人発のボクシング世界チャンピオンになっている。
隣国では朝鮮戦争が勃発し、その特需で経済復興がはじまりつつあった。日本は、餓えた子供のように、目の前に置かれた甘い果実にむしゃぶりつこうとしていた。

一方で、血のメーデーでは多くの犠牲者が出た。各地で労働争議が頻発し、その反動で、社会主義運動への抑圧もはじまった。破防法が制定されたのもこの年である。
「時代が変わる」、といえば聞こえはいいが、社会全体が、ギシギシと軋みを生じさせながら動いていく、一歩誤ると人間も社会も、変化の圧力で押し潰されかねない、そんな危うい時代だった。

こんな時代だからこそ、井原西鶴を題材にしようとした溝口監督の慧眼は素晴らしい。西鶴は、人間の俗物性を抉りだす作風に、その特徴がある。
金欲・色欲にまみれて生きる庶民の姿を描く西鶴モノは、長く続いた軍国主義の呪縛と占領下の虚無感をぬぐい去り、人間本来の「生々しさ」を描くには、格好の素材といえるだろう。

この映画は、溝口健二にとっても、田中絹代にとっても、戦後のスランプを脱出する転換点になった作品だという。
日本が、生身の人間の欲や活力をテコに再生をはじめようとする時代に、巨匠と大女優が仕掛けた起死回生の大勝負。それが『西鶴一代女』ということになる。

大勝負のテーマは、何であったのか。
私は、「女の自我」をどう表現するかにあったのではないかと思うのだが、どうだろうか。

この映画は、一見すると「男を狂わせる魔性の女が堕ちていく姿」を描いているように見える。そこに、女性が背負わねばならなかった前近代的な陋習が散りばめられている。
身分差で引き裂かれる運命に泣く若い純愛
親の所有物であることを受け入れざるをえない娘の悲劇
子供を産む機械として使い捨てられる母性
春をひさぐ遊女への蔑視 etc...
次々と展開される過剰なまでの悲劇性は喜劇にさえ見える。

しかし、田中絹代=お春は、「時の流れに身を任せて」沈み堕ちていくしかない女の一生を演じつつも、自分の意志で「時の流れに身を任せる」ことを選び取っているようにも見える。そこに「自己決定の原理」を感じるのである。
どうせ流れに逆らうことが出来ないのなら、思い切って身を委ねてしまうことで、流れに乗り、人生を作り直そう。そんな強い意志の存在があるのではないか。

堕落のきっかけにもなった勝之助(三船敏郎)との恋はその象徴的なものである。
勝之助の強引な誘いに乗ったようにも見えるけれど、止まろうと思えば、止まることは出来たのではないか。
彼女は、一時の激情に流されたというよりは、自らの意志で勝之助の真っ直ぐな愛に身を任せたようにも思えて仕方ない。
「男女が引かれ合うことの、何が不義なのか分かりませぬ!」
お春は、行状を責める父親に対して、きっぱりと言い切る。
その言葉は、恋の魔力に盲目となった若者というよりは、恋愛至上で生きることを選び取った女性の人生宣言のようにも聞こえた。

その後の連続する不幸に対しても、お春は「自我」を通している。誰になんと言われようと「生きる」という自我である。
松平家を追い出された時、島原に売られた時、突然の夫の死、夜鷹へ身を堕とす前に、彼女には、何度も「死」を選択する機会があった。
しかし、死のうというそぶりさえ見せず、「生きる」ことに執着している。
その結果、長続きはしないが、それなりの幸せを握りしめることができた。
我が子を抱く喜び、島原太夫の艶やかさ、甲斐甲斐しい動きを見せる女中姿、つかの間のおかみさん暮らし、などなど。
実にしたたかに、自らの居場所を掴み取っている。
たとえそれが、転落の前の儚いうたかたであったにしても...

この選択は、田中絹代が「女優であること」にこだわり続けたことにも似ている。例えば原節子がそうであったように、容姿の衰えとともにスクリーンから遠ざかることも出来たはずだ。
日本の女優の多くはそうやって、永遠の美しさをファンの脳裏に刻み込む道を選んだ。

田中絹代は違った。
この映画では、一本の作品の中で、10代の乙女から50代の夜鷹までを演じ分けるという難行に挑戦した。終盤で、「化け猫」とまで蔑まれ、なおも開き直って気丈であろうとするシーンは圧巻である。

「わたし以外のいったい誰に、この役ができるのか!」

そんな強烈な自負が伝わってくるような演技ではなかろうか。 

「時の流れに身を任せる」ことを選び取って生きてきたお春は、最後の最後で「時の流れに逆らう」という選択をする。
お情けで与えられた我が子とのお目もじの機会を思い出として、隠棲の日々を送ることを命じられたお春は、はじめて運命に逆らって、遁走する。
そして比丘尼となって流浪のうちに生き続けることを選び取る。
たとえ、乞食尼であろうとも、自分の足で歩きつづけることが、お春にはふさわしい。
残されたわずかな余生を、座敷牢の中で、ただ生かされて過ごすことは、彼女にとっては「死ぬこと」と同義である。
けっして会うことがない、我が子の幻影を探し求めて、町をさまよい歩くことこそが、彼女が最後に選び取った、「生きる」という自我である。

田中絹代は、死ぬまで「女優であること」にこだわり続けた。最晩年は、多額の借金に困窮する暮らしの中で、肺癌に冒され、それでも女優であろうとした。

「目が見えなくなっても、やれる役があるだろうか」

見舞客に、そう話したという。
『西鶴一代女』のラストシーンを彷彿させる逸話である。

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