『苺とチョコレート』のダブルバインド

1993年制作 トマス・グティエレス・アレア監督
同性愛者であるために祖国から追われる者と、彼に一方的に愛されて困惑する堅物の共産主義者。80年代のキューバはハバナを舞台に、偶然出会ったちぐはぐな2人の青年がやがて心を通わせ、真の友情に結ばれていく過程を描いたヒューマン・ドラマ。人種・男女・職業など、あらゆる面で差別撤廃が実施されているキューバだが、同性愛者だけは白眼視され、非難されるという。本作は若者たちの友情を通して、そうした社会の矛盾と不寛容に対する意義申し立ての主張も込められているが、ていねいにロケ撮影された普段着のハバナの町の光景と共に、作風は明るい。
------------------
失恋して傷心のハバナ大学生、ダビト(ウラジミール・クルス)が公園でチョコ・アイスクリームを食べていると、イチゴのアイスクリームを好んで食べる、ホモセクシュアルらしい青年ディエゴ(ホルヘ・ペルゴリア)が声をかけてきた。ダビドはディエゴにあれこれ言いくるめられて彼の部屋を訪ねる。ディエゴは文化センターで働く芸術愛好家で、民主思想の持ち主。一方、ダビドは共産主義青年同盟のメンバーで、政治科学を専攻している。結局、2人は平行線を辿って口論となり、ダビドは部屋を飛び出す。寄宿舎に帰った彼が友人のミゲル(フランシスコ・ガトルノ)にディエゴの話をすると、彼は「そいつは危険人物に違いないから身辺を見張れ」と言われる。再びディエゴの部屋を訪れたダビトは、真に芸術を愛する彼の本質に触れ、次第に彼を理解し始める。ディエゴもまた、その容姿にひかれて近づいたダビドの純粋さ、祖国を思い、未来を信じる若々しい精神に、心からの愛情を感じる。一方、ディエゴと同じアパートに住む女性ナンシー(ミルタ・イバラ)は自殺未遂でダビドに輸血してもらって以来、年下の彼に熱い眼差しを注いでいる。ディエゴは2人が恋に落ちたことを知っており、ダビドへの恋愛感情と友情の間で葛藤しながら、2人が結ばれるよう配慮してやる。ディエゴを親友として認めるダビドに業を煮やしたミゲルはディエゴの部屋に押しかけ、大乱闘となる。ミゲルに迷惑が及ぶことを案じたディエゴは、キューバを去る決意をする。別れの時が近づき、ハバナの町を歩く2人。ディエゴとの抱擁だけは拒んできたダビドは、友情と悲しみから別れを告げる彼を今初めて、しっかりと抱きしめた。
(映画.COM)

なんとも感情移入がしづらい映画である。ディエゴの顔は、デーブ・スペクターを連想してしまうし、ゲイ特有の所作は、その気のない男にはつらいものがある。
そんな不思議な映画を、キューバでは4人に1人が観たという。娯楽が少ないであろうことは想像できるが、それにしてもすごい数字だ。日本でいえば、3000万人を越える人が観たことになる。『千と千尋の神隠し』でも2350万人というから、この映画の動員力のすさまじさは推して知るべしだ。
はたして、この映画がキューバの人々に、どんな共感を呼んだのか、どのあたりが琴線に触れたのか。それを確かめるべく、もう一度見直してみた。

冒頭、ダビドがガールフレンドを安ホテルに連れ込むシーン。窓の外には、「革命防衛委員会」の看板が映し出される。一人の人間の中に、押さえられない本能的な欲望と崇高な革命思想が同時に存在していることを象徴しているシーンだ。

「これは、“ダブルバインド”だ!」
その時、そう閃いた。
「ダブルバインド」とは、矛盾する2つの次元のメッセージを同時に受け取った者が、その矛盾を指摘することができずに、それらに答えなくてはならない状態のことである。

分かり易い例で、親子関係にあてはめてみると、
1.こっちにきて一緒に遊ぼうといいながら
2.子どもが寄ってくると、冷たく突き離す
親が子供にこういった対応を繰り返しすると、子どもは、精神異常をきたすことがあるといわれている。

私達は、人生の中で、何度か「ダブルバインド」に遭遇することがある。
東京に大学に出た青年が、田舎に帰って就職するか、都会で働くかを悩む時。
既婚のキャリア女性が、仕事を優先するか、子供を作るかべきか迷う時。
自分の会社が不正をやっていることに気づき、告発をして社会正義に殉ずるか、生活のための目をつぶるか、心が揺れる時
「ダブルバインド」は、誰もが経験する問題である。

ディエゴは、2重のダブルバインドに縛られている。
ひとつは、自由主義者の自分と社会主義の自国のどちらを取るかという葛藤である。
もうひとつは、恋愛と友情の狭間で揺れ動くダビドへの愛情形態である。
キューバが好き。でも自由に生きたい、表現したい。
ダビドが好き。でも友情で止めなければならない。
いずれも愛する対象(人・国)と相容れることが出来ない悲しさに満ちている。

ダビドも、実は、いくつかのダブルバインドに拘束されている。
青年同盟の一員として生きるべきだとする社会的使命感と、元恋人の裏切りをいつまでも許せないでいる女々しさ。
「社会が求めるものを学ぶ」ために政治学を専攻する義務と、ディエゴが道を拓いてくれた芸術・文学に憧れる気持ち。

ディエゴとダビドのダブルバインドは、キューバという国家が宿命的に持つダブルバインドの象徴かもしれない。
キューバ人は、本来ラテンアメリカの信仰心や自由な芸術性を受け継いでいる人種である。一方で、アメリカの軒先に位置する社会主義国家として、徹底した思想教育も必要であろう。
キューバ人らしく、陽気に自由に暮らすこととキューバという国を守り、育てていくことが相容れない場面は容易に推察できる。

人間は、本来「複雑人」である。
目の前の欲望を満たそうとあくせくする自分。 崇高な理想に殉じるべきだとする自分。内なる自分から異なるメッセージを受けながら、どこかで折り合いをつけながら生きている。
私が好きなミュージカル「ラ・マンチャの男」では、主人公ドン・キホーテが叫ぶ。

「あるがままの現実に折り合いをつけて、あるべき姿のために戦わないことこそが狂気だ」

現実に折り合うことを放棄したドン・キホーテは狂人となり、水車と敵兵の区別が出来なくなって突進していく。

ディエゴは、キューバを捨てることで、現実に折り合いをつけた。
ダビドも、ナンシーという不思議な女性のお陰で、現実に折り合いそうだ
ダブルバインドの呪縛から逃れるためには、何かに折り合いをつけていくしかない。
キューバの人々も『苺とチョコレート』を観ることで、現実に折り合いをつけようとしたのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?