『静かなる男』 終わるための儀式

1952年作品。監督:ジョン・フォード 主演:ジョン・ウェイン
アメリカのプロ拳闘家だったシェーン・ソーントン(ジョン・ウェイン)は平和な生活を望んで拳闘界から身をひき、故郷アイルランドの小村イニスフリーに帰って来た。彼は人手にわたった荒れ果てていた自分の生家ホワイト・オモーニン荘を金持ちの後家ティレーンから買いとり、静かに暮らそうと思ったのだが、この家は村の大地主で乱暴者レッド・ウィル・ダナハー(ヴィクター・マクラグレン)の地所の隣で、かねてからティレーンに思召しのあるレッドが買い取ろうとしていたところなので、ことは面倒になって来た。その上、シェーンが村に着いた日、見染めた娘と恋仲になったが、これがレッドの妹メリー・ケイト(モーリン・オハラ)だったので、レッドはいよいよシーンに対して腹を立てた。シェーンはメリー・ケイトと結婚するといい出したが、レッドは妹が気に入らない男と結婚するので持参金をわたそうとしなかった。アイルランドの習慣では結婚には必ず持参金がつきもので、メリー・ケイトは持参金なしでは恥ずかしくて結婚出来ないと悲しんだが、アメリカ暮らしをしたシーンにとって問題でなく、牧師ロナガン(ワード・ボンド)やお人よしでお節介な老人ミケリーン(バリー・フィッツジェラルド)の策略でレッドもしぶしぶ承諾を与え、結婚式をあげることが出来た。村人たちは、シェーンがレッドの腕力をおそれて持参金を要求しないだろうと噂をはじめ、メリー・ケイトも持参金をわたしてもらえるまで、同衾を拒んだ。彼女はシェーンの前身を知らないので兄と戦わない彼を卑怯者だと誤解し、とうとう村を逃げ出そうとした。シーンは拳闘家時代、あやまって相手を殴り殺し、それ以来2度と腕力はふるうまいとかたく誓っていたのだが、ここに至って遂に爆発、汽車からメリー・ケイトをひきずりおろしレッドに持参金を要求した。大勢の村人のみている手前、レッドはしぶしぶ金を出したが、シェーンはそれを釜の中に叩きこんだのでレッドは烈火のように怒り、2人は大格闘をはじめた。野越え山越え川越えての闘いは、途中居酒屋でひと休みしたが、結局2人ともくたくたになってめでたく仲なおり。シェーンはメリー・ケイトと晴れてほんとの夫婦になった。

何かをはじめようとする時、新たなスタートを切ろうとする時、われわれは大切なことを忘れてしまうものだ。
何かをはじめる前に、何かの「終わり」を体験しなければならないということを。
この映画は、そのことを教えてくれる。

ショーン(ジョン・ウェイン)は、故国アイルランドで新しい生活をはじめようとした。
彼が始めようとしたのは、「静かなる男」として生きることであった。ボクサー時代の富や栄光、その代償に引き受けねばならなかった心の傷を捨てることであった。
故郷は彼を温かく迎えてくれた。メアリー(モーリン・オハラ)という、新たな生活を共に築くパートナーも見つかった。
つらい過去を誰にも知られることなく、父母の思い出がたっぷりと染み付いた石造りの小さな家で、バラに囲まれて、もの静かに暮らすことを願った。

しかし、新しい生活は、二人が思うようにははじまらない。
結婚生活という舟は漕ぎ出している。しかし、一生懸命漕いでいるはずなのに、少しも前に進んでいかない。そうこうするうちに、見えていたはずの向こう岸が見えなくなる。戻ろうと振り返っても、いつの間にか船着場もなくなっている。
二人の結婚生活は、そんな光景に見える。
メアリーの兄レッド(ヴィクター・マクラグレン)が、持参金を持たせることを頑なに拒んだことが、二人のスタートを惑わせたのだ。

ショーンは、持参金に執着するメアリーに苛立ちを覚える。しかし、実は彼の葛藤は、自分自身に向けられているものだ。

「二人を遮るものは、モノやお金に執着する君の心だ」

ショーンは、言ってはいけない言葉を口にして、メアリーを傷つける。
かといって、メアリーのために、レッドに頭を下げて、持参金を受け取りに行くことはできない。
もの静かに生きることを願うショーンにとって、レッドという存在は、こころの奥底に重石をつけて沈めたはずの「怒り」を刺激する危険な存在だ。出来れば正面からぶつかりたくない相手なのだ。

ショーンに必要なことは、「終わり」の体験であった。
何か新しいことをはじようとする前に、古い何かに終わりを告げる。そんなこころの「儀式」が必要だったのだ。新しい旅立ちは、染み付いたプライドや愛着ある衣服を捨てることから始まるのだ。
人類の長い歴史の中で、人は「儀式」を通して「何かを終える」という区切りを肉体と精神に刻み込んでいくことを憶えた。ある時代・生活、そこで許されていた思考や習慣が、もう通用しないのだということを、こころと身体にしっかりと刻み込む必要がある。
元服も、お歯黒、剃髪も、そういう意味を込めた「儀式」であった。

ショーンは、ボクサーを引退するにあたって「喧嘩」を封印した。そして故郷アイルランドに戻ってきた。
よりによって故郷は、喧嘩を通してお互いの存在と関係を確かめ合う土地である。いや、それは彼が無意識に探し求めていた、自分を育んだ原風景への回帰だったのかもしれない。
だとすれば、そこで再出発するためには、ショーンは、もう一度「喧嘩」を体験する必要があった。新しい人生をはじめる前の「終わり」の儀式として。

この映画の重層的な魅力のひとつは、ショーンの直面する課題が、ジョン・フォードの人生を意味づける二重構造になっていることだろう。
22歳で映画監督になったフォードは、その天賦の才を発揮し、ヒット作品を連発、20代前半にして大きな富を得たという。
それは、当時の米国大衆が好んだ西部劇を、低予算でピストン製作するB級映画大量生産型監督としての名声であった。
十分な富を得たフォードは、思い立って両親の故国アイルランドを訪れ、西海岸にあるゴールウェイの駅に降り立った。27歳の時だったという。
『静かなる男』の冒頭で、ショーンが汽車を降り、イニスフリーに向かうシーンは、フォードの実体験をそのまま映画化したものだという。停車場から二輪馬車に乗り、故郷の親戚を探すために、18キロの道のりを尋ね歩いたというのも実話である。
フォードは、この旅で、当時IRAの活動家として山中に隠れ潜んでいた遠縁を探し出し、食糧と軍資金の差し入れをした。その代償として英国軍に連行され、「二度とアイルランドに来るな」という宣告とともに強制帰国させられたという。

若き日のアイルランド訪問体験は、彼にとって何かを「終える」儀式になった。
安上がりの西部劇をサクサクと作るのが得意だった青年監督が、20世紀映画を代表する巨匠の道を歩み始めたのは、それからであった。
フォードは、西部劇中に典型的なアイリッシュ的人物像を造形して埋め込むことが多い。ゴツゴツとして、不器用で、それでいて情に厚く、自己犠牲を厭わない、そんな男を好んで描いた。
無骨な主人公を際立たせる脇役は、「水晶のように透き通った善人」(ミケリーン)であったり、「悍馬のような気性の女性」(メアリー)であったり、「条理を超えた頑固者」(ダナハー)であったりする。
いずれも濾過器を通して純度を高めた、典型的なアイルランド人気質である。

映画史に残る名シーンだといわれるラスト15分の決闘シーンは、ショーンが、かつての自分と決別するための「終わり」の儀式に他ならない。
その儀式を経て、彼は「静かなる男」から「騒々しい人々」の一員として生きることが出来たのではないか。
そう考えると、『静かなる男』は、フォードにとって、二回目の「終わり」の儀式であった可能性もある。
フォードは、27歳の故国訪問から30年を経て、この映画にたどり着いた。
すでに名監督としての揺ぎない地位を獲得した彼が、『静かなる男』を撮ることで、何を「終えよう」としたのか、そして何をはじめようとしたのか。

強い映画とは、心地よい疑問を余韻として私たちに残してくれる。

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