『クロッシング』 ふたつの「なぜ」

2009年制作 監督:キム・テギュン
生きるために北朝鮮から中国へ渡った父子の悲劇を描いた人間ドラマ。100人近い脱北者への取材を基に北朝鮮の現実に根ざした骨太なストーリーに仕立て、第81回アカデミー賞外国語映画部門賞の韓国代表作品に選ばれた。過酷な運命に翻弄(ほんろう)される主人公を『ドクターK』のチャ・インピョが熱演。脱北経路を描くため、中国やモンゴルで撮影された雄大な映像美も見どころだ。
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中国国境に近い北朝鮮の村で妻子と幸せに暮らすヨンス(チャ・インピョ)だったが、ある日妻が肺結核を患う。風邪薬さえ手に入らない状況に彼は中国へ出稼ぎに行くが、不法な現場が発覚し警察に追われる身に。その間に病状が悪化した妻は亡くなり、一人残された11歳の息子ジュニ(シン・ミョンチョル)は父を探しに家を離れる。(シネマトゥデイより)

この映画には、ふたつの「なぜ?」があるのではないか。
ふたつの「なぜ?」が意味するものは何かに思いを巡らすことで、キム・テギュン監督がこの映画に込めた思想について考えてみたい。

なぜ、親子は再会しないのか?
多くの物語には、その母型ともいうべき「物語マザー」があることを喝破したのは、松岡正剛氏である。
彼は洋の東西を問わず、新作として世に送り出されている多くの物語は、かつての伝説、昔話や童話から母型を採っていることを指摘した。
例えばギリシャ神話やケルト神話に見られる古代の英雄譚は、何度も装いを変えて変奏され、『スター・ウォーズ』や『インディー・ジョーンズ』へと変化してきた。
1)英雄(ヒーロー)は民衆を救うために、仲間達と共に旅に出る。
2)旅の途中では、幾度もの困難が、英雄と仲間を襲う。
3)英雄は、困難を乗り越え、目的を果たして帰還する。
4)民衆は彼らを熱狂的に迎える。
「旅立-仲間-困難-成功-帰還」この基本ストーリーが英雄物語のマザーである。
日本の「桃太郎」「水戸黄門」も、同じ「物語マザー」を採っていることがわかる。

ユングは、人間の無意識の深層には、民族や言語・文化を越えて共通する「普遍的無意識」の領域があると言ったが、「物語マザー」も同様に、5万年前、アフリカの大地を旅立ち、世界中に広がっていった人類の遠い祖先が語り伝えた原初体験が、私達のDNAの中に埋め込まれ、物語という形になって繰り返し表出しているのかもしれない。

「物語マザー」には、英雄型だけでなく、洪水神話型(「ノアの箱船」「アトランティス」など)、継子いじめ型(「シンデレラ」「落窪物語」)など)、日常生活発見型(カフカ、小津映画など)など、いくつかの類型があると言われているが、この映画が拠っているのは、「親子流離譚」とも呼べる「物語マザー」ではないだろうか。
「母を訪ねて三千里」「山椒大夫」「みなしごハッチ」等々、「親子流離譚」を母型にした名作はすぐに思い浮かべることができる。
私なりに、「親子流離譚」の基本ストーリーを分析してみると、
1)貧しいながらも強い絆で結ばれた親子がいる。
2)親子は離ればなれになる。
3)子供は親を探して旅に出る。
4)旅の途中で多くの困難に出会い、人の優しさを知る。
5)最後に親子は出会うことができる。
という構造になるだろう。

映画『クロッシング』も、ほぼこの母型を採っている。
1)キム・ヨンス(チャ・インピョ)一家は、貧しいながらも愛情に満ちている。
2)ヨンスがジョニ(シン・ミョンチョル)と母親を置いて国境を渡ることで親子は離ればなれになる。
3)ジョニは、父に会うために中国へ渡ろうする。
4)途中で多くの困難に会あう。

ところが、最後のところで「物語マザー」を逸脱してしまう。
私も含めて、多くの視聴者は、親子は最後に会えるであろうことを祈念していた。いや確信していた。それが、民族や言語・文化を越えて共通する「普遍的無意識」だからだ。
にもかかわらず、ヨンスとジョニは、生きて再会することは出来なかった。
キム・テギュン監督は、なぜ「物語マザー」に従わなかったのだろうか。
なぜ、親子は再会できなかったのだろうか。

なぜ、父と子の物語なのか
「親子流離譚」をよく分析してみると、離ればなれになる親子は、「母親と男の子」という組み合わせが多い。
「母を訪ねて三千里」「山椒大夫」「みなしごハッチ」も皆そうなっている。
これは生物学的に説明が可能である。人間を、生物の一種と見なせば、種の保存本能として、限られたメスをめぐって、オス同士はライバル関係にあるからである。これは父子関係であっても例外とはならない。
人間に一番近い生物であるゴリラを例に取ると、ひとつの群れの中にオスの絶対数が増えてしまうと、オスによる子殺しが起きるという。誰の子かわからない子供を殺し、自分の子孫だけを残そうとする本能が働くからだ。
子供の側にも、「エディプス・コンプレックス」と呼ばれる反父親感情が働く精神構造があることは、フロイトが明らかにしている。
男の子は、母親を確保しようと強い感情を抱き、父親に対して強い対抗心を抱く心理状態に陥る危険性がある。家族間の相克には、母と男子の過剰過ぎる愛情が起因となる場合が多いことでもわかるだろう。
つまり、父と男子は、母と男子に比べて、ドライで愛情が薄いものなのかもしれない。それゆえ「物語マザー」は「母と男の子」の組み合わせになっている。
ところが、『クロッシング』では、ここでも「物語マザー」を逸脱している。母と男の子の流離譚としてストーリーを組み立てることも出来たはずだ。
なぜ「物語マザー」に従わなかったのだろうか。
なぜ、父と子の物語なのだろうか。

ふたつの「なぜ?」により、この映画は「親子流離譚」の母型から、重要なポイントで少しだけ外れることになった。それは、物語的に言えば、完成度を落とす結果につながったはずだ。
キム監督は、新聞インタビューの中で、結末がハッピーエンドの方が感動を与え、興行的にもいいのわかっていると答えている。彼は確信犯として、この映画を「物語マザー」からズラしている。
実際に、ふたつの「なぜ?」の存在は、この映画に、どうしようもない重苦しさ、ザラザラとした後味感をもたらし、もう一度見ようという意欲を減退させる。
「物語マザー」に乗った高質・高度な予定調和の物語は、観るものに心地良さを与え、それがエンタテイメントになる。だから、「親子流離譚」は涙と共に感動を誘う。
エンタテイメント性という、商業映画にとって最も大切な要素を犠牲にしてまで、金監督がこだわったものは何なのか。
彼は先述の新聞インタビューの中で、これは昔話ではなく、この瞬間に北朝鮮で起きている悲劇であることを直視して欲しいと語っている。
「物語マザー」からの「ズラシ」で生じた違和感は、涙と感動の物語に心地良く酔うことを、無意識に希求している観客に、キム監督が放った強烈な覚醒メッセージである。
この映画は、政治的メッセージは排しているけれど、ヒューマニズムという甘いお酒に、強いスパイスを効かせることで、私達が見ようとしない北朝鮮の現実、突き詰めようとしない脱北問題の真実を知らしめようとしている。それを考えるのが、この映画を観る私達に課せられた義務でもある。

更にもうひとつ
ふたつの「なぜ」と並んで、強い印象を残したのが、エンディングロールで流れる川原の映像である。
東アジア独特の死生観を表現しているように思ったからだ。
ジョニは幼なじみのミソンから、「人は死んでもまた会える」という話を聞く。最後の映像には、ジョニ、ミソン、母親、ミソンの父、愛犬ペックなど、死んでいった人々が、楽しく語らい、遊ぶ姿が映し出されている。そこはけっして「他界」ではない。現実の世界のすぐ隣にあって、同じように存在する相似形の世界である。すぐ近くにあるもう一つの世界=「異界」ではないだろうか。
古代人は、人の死は肉体の死であって、魂は死なず、現世の相似形である「異界」で、生前と同じように暮らせると考えていた。「異界」は、Heaven でもHellでもない。極楽でも地獄でもない。仏教やキリスト教考える死後の世界=「他界」ではなく、リアルな世界の隣に、同じ時間で存在する、もう一つの見えない世界である。

ジョニは、願い通り、死後の世界で、父母、愛犬、ミソン等に会うことができた。
ヨンスとジョニが渡ったのは国境を分ける豆満江ではなかった。現世と異界を分ける見えない河だったのではないか。
そう考えると『クロッシング』というタイトルに込められた重層的なメッセージが、強く心に響いてくる。

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