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日常に埋め込まれた価値

どんなにおいしい料理や酒も、毎日続ければ、やがては飽きてしまう。
白いご飯と水は、毎日続けても飽きることはない。
それどころか、それがなければ生きていくことができない。
日常に埋め込まれた「あたりまえ」という価値がそこにある。

白いご飯を好きなだけ食べられることの喜び。
蛇口をひねればいくらでも出てくる水の有り難み。
それが、幸せな生活の基盤である。

米をブランドで選ぶようになったのは、いつ頃からであろうか。
水が売られるようになったのは、いつ頃からであろうか。
それが進歩なのか、退歩なのか、まだわからない。
「あたりまえ」という価値を毀損するものでないことを祈りたい。

大象を執りて、天下に往けば、往きて害せられず、安平太なり。楽と餌(じ)とは、過客止まる。道の口より出ずるとき、淡としてそれ味無し。之を視れども見るに足らず、之を聴きけども聞くに足らざるも、之を用ふれば既(つ)くす可からず。  
『老子』(仁徳第三十五)

大象(だいしょう):ここでは「道」と同じ意
安平太(あんぺいた):やすらかで平安の意
楽と餌(じ):音楽やご馳走
過客(かきゃく):旅人

「道」を手本とし、「道」の在りようを自分の在りようにして生きていけば、けっして害されることなく、平安な人生が得られる。そうした人が多くなれば、天下太平となる。
美しい音楽と豪華な料理には、旅人も引き付けられ足を止めるだろう。しかし「道」がものを語ってもあっさりとして当たり前のことのように受け取られてしまう。
「道」というものは、見ようとしても見えないし、その声を聞こうとしても聞けないもので、目立たず注目もされない。しかし、「道」を頼りにし、「道」を手本としてその教えを守って生きれば、その力は尽きることがない。
『老子 道徳教講義』田口佳史

【解説】
この章も「道」を比喩で説明している。
「道」を味に喩えると、かなり淡泊な味のようだ。水や白米といったところであろうか。毎日続けても飽きない。なくなれば生きていけないほど大切なものだが、その価値に気づきにくいものである。

言うならば「日常に埋め込まれた価値」 それが「道」というものであろう。
私が幼い頃は、米は地産地消の時代だったので、ブランド米を目にすることは少なかった。一般家庭でもペットボトルの水を買うようになったのは、1980年代のことであった。

「日常に埋め込まれた価値」が資本主義のレールに乗って商品に変わってしまったのは良いことだろうか。大切なものを失いつつあるのではないかという不安が募る。

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