川の流れのように
いま、川辺の岸に立つとしよう。
目の前を流れている川の水は、昨日はまだ山峡に湧き出たばかりだった。
そして明日には大海へ注いでいるだろう。
静かな大河の川面は満月が照り映える。
激しく渦巻く激流は全てを押し流す。
いずれも同じ源泉から湧き出て大海へと注ぐ水であることに変わりはない。
大海の水は空に昇り、雨粒となって大地に戻っていく。
すべては、ぐるりと循環している。
目の前の流れに向き合い大海や源泉の情景を重ね合わせることができるか。
見えないものを見ることが出来るか。
それが問われている。
【解説】
『老子』第一章の「體道第一」は、いかにも老子らしい抽象的な一文である。老子の魅力とわかりにくさが同居しており、冒頭を飾るにふさわしいように思える。
「道は道であって、道でない。名は名であって、名でない・・・」という書き出しは、一見すると禅問答のようで、何のことだかよくわからない。
仏教が中国に入り、老荘思想の影響を受けて生まれたのが禅宗だと言われているようなので、禅問答のわかりにくさは、老子由来だからかもしれない。
そこで、とっかかりのわかりにくさは、あえて脇に置いて、気になる印象的なフレーズを手掛かりとして、老子の世界に分け入ってみるというのはどうだろうか。
そうすると、全文を通して言わんとするところが「言葉や論理で示すことは十分ではないということだとわかるはずだ。これが老子の最大の魅力である。
「體道」という章題は、老子が命名したわけではなく、後世の人が付けたようだが、「道」を理解するには頭ではなく身体全体でつかみとれ、というメッセージのように私には思える。
この章の焦点は、「妙」「徼(きょう)」のふたつの言葉にあると思う。私の中国古典の恩師である田口佳史先生によれば、「妙」と「徼」は人間の異なる二つの側面とのこと。「妙」は、清く澄み切った心であり、「徼」は、欲望まみれの人間臭い心である。
この二つの心は、正反対のように思えるが、けっして矛盾・対立の関係ではない。むしろ同根だと老子は言っている。清く澄み切った心と欲望まみれの心、両方の心を抱えた複雑な存在が人間だ、ということである。
同じ「道」から生まれた「妙」と「徼」の二つの心をめぐる思索の旅が、老子を読む醍醐味だと思う。
そこで最初の創詩は「川の流れ」をテーマにしてみた。これから何度か出てくるが「水の思想」は、老子の重要なモチーフでもある。
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