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川の流れのように
いま、川辺の岸に立つとしよう。
目の前を流れている川の水は、昨日はまだ山峡に湧き出たばかりだった。
そして明日には大海へ注いでいるだろう。
静かな大河の川面は満月が照り映える。
激しく渦巻く激流は全てを押し流す。
いずれも同じ源泉から湧き出て大海へと注ぐ水であることに変わりはない。
大海の水は空に昇り、雨粒となって大地に戻っていく。
すべては、ぐるりと循環している。
目の前の流れに向き合い大海や源泉の情景を重ね合わせることができるか。
見えないものを見ることが出来るか。
それが問われている。
道の道とす可きは常道に非ず。名の名とす可きは常名に非ず。名無し、天地の始には。名有れ、万物の母にこそ。故に常無は以てその妙を観んと欲し、常有は以てその徼(きょう)を観んと欲す。この両者、同じきより出でて名を異にす。同じきもの之を玄と謂ふ。玄の又玄、衆妙の門
「これが道です」と言えるような道は恒常普遍、真の道ではない。名前というものも信用しすぎてはいけない。名前など天地が産まれる最初には無かった。名前が必要となったのは、天と地の間に万物が次々と産み出されてきてからのことである。名前とはそんなもの、一種の符号にすぎない。人間には二つの心がある。清く澄み切った「妙」の心と、歓楽街の雑踏のような、欲のごった煮のような「徼(きょう)」の心だ。欲を無くした時は、「妙」が観える。欲の塊になっている時には、「徼」が観える。妙とは、人間の妙なる霊妙な部分。徼とは人間の醜い、見苦しい部分。両方あって初めて人間なのだ。両方をよく知り、両方あるのが人間であることもよく知って生きることだ。なぜなら、「妙」も「徼」も、名前は違えど同根。つまり同じ道から生じているのだから。「玄」はくろいという意味が変化し、やがて「暗い」という意味になる。私達が「玄人」と呼ぶのは、「暗いところが見える人」ということになる、肉眼では捉えられない、微かなる妙を見通すことができる人が、玄人である。道とは、玄の中の玄。だから言葉と論理では説明できない。
【解説】
『老子』第一章の「體道第一」は、いかにも老子らしい抽象的な一文である。老子の魅力とわかりにくさが同居しており、冒頭を飾るにふさわしいように思える。
「道は道であって、道でない。名は名であって、名でない・・・」という書き出しは、一見すると禅問答のようで、何のことだかよくわからない。
仏教が中国に入り、老荘思想の影響を受けて生まれたのが禅宗だと言われているようなので、禅問答のわかりにくさは、老子由来だからかもしれない。
そこで、とっかかりのわかりにくさは、あえて脇に置いて、気になる印象的なフレーズを手掛かりとして、老子の世界に分け入ってみるというのはどうだろうか。
そうすると、全文を通して言わんとするところが「言葉や論理で示すことは十分ではないということだとわかるはずだ。これが老子の最大の魅力である。
「體道」という章題は、老子が命名したわけではなく、後世の人が付けたようだが、「道」を理解するには頭ではなく身体全体でつかみとれ、というメッセージのように私には思える。
この章の焦点は、「妙」「徼(きょう)」のふたつの言葉にあると思う。私の中国古典の恩師である田口佳史先生によれば、「妙」と「徼」は人間の異なる二つの側面とのこと。「妙」は、清く澄み切った心であり、「徼」は、欲望まみれの人間臭い心である。
この二つの心は、正反対のように思えるが、けっして矛盾・対立の関係ではない。むしろ同根だと老子は言っている。清く澄み切った心と欲望まみれの心、両方の心を抱えた複雑な存在が人間だ、ということである。
同じ「道」から生まれた「妙」と「徼」の二つの心をめぐる思索の旅が、老子を読む醍醐味だと思う。
そこで最初の創詩は「川の流れ」をテーマにしてみた。これから何度か出てくるが「水の思想」は、老子の重要なモチーフでもある。
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