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J-PLUS登場 - Appleの日本展開

最初のApple][は1977年6月に発売されましたが、最初のうちは充分な販売体制もなく、日本ではいくつかのお店が輸入していたので、そこから買うしかありませんでした。ネットな時代ではないので、まずアメリカの雑誌広告を見るのですが、日本で見られるのはだいたい数ヶ月遅れです。そこから発注して大抵は船便で輸入するので、お店に並ぶまででさらに1ヶ月程度。ですから買えるようになるまでは半年くらいはかかります。気の短い人はアメリカで働いているとか出張に行く人にハンドキャリーしてもらうのですが、経験がある人でないと通関が命がけでした。

1978年に入ってからは秋葉原では、今までマイコンボードなどを売っていたお店でチラホラ見かけるようになりましたが、何せお高いものだったので指をくわえている人が殆でした。

Apple II

1979年の輸入台数が5,000台程度となっていますが、私のAppleもこの中の1台ということになります。無印は基板にあるROMが6K BASICで、10K BASICを使うにはカセットから読み込む必要があったのですが、この年の6月には基板のROMを10K BASICにしたPLUSが発売されたようです。PLUSを秋葉原で見かけるようになったのは翌年になってからだと思います。とはいえ無印をPLUSのように使えるオートスタートROMであるとか、10K BASICのROMが拡張スロットに搭載されているROMカードなどは、もう出回り始めていました。

1980年に入った頃には互換機も出回り始めていたのですが、日本製のパソコンも登場したことで、Apple][でもカナを使えるようにしたいという需要が高まり、輸入販売していたESDラボラトリなどではカナが使えるような独自の改造を施したものも売られるようになっていました。

緑色でplusとなっていた右下が赤いJ-plusになった

まだまだ小さな会社だったAppleは世界中に支社を作る余裕はなかったものの、そのマーケットは重視していて地域に合わせたバリエーションを展開するために代理店を探していたようです。どういう経緯があったのかはどこにも書いてあるものが見つからないのですが、日本では東レが代理店となることに決まり、カナを使えるようにしたJ-PLUSが1980年9月に発売されました。東レという会社をご存知でない方もいるかもしれませんが、ユニクロのヒートテックなどの開発にも携わっている繊維メーカーで、オイルショック後の繊維不況の中で新しい事業を探していたのは確かだと思います。ただAppleとの提携については、わりと個人的な繋がりとかで決まったのではないかとも睨んでいます。

東レ

J-PLUSはもちろんPLUSのバリエーションですから基板上のROMは10K BASICで、カナを使えるようにしたためにキーボードの前面にはカナが刻印されています。テキストを画面に出すキャラクタジェネレータにカナを追加し、文字コードとしてはリバース文字などに使われていた場所をカナに割り当てました。またモニタの内容もこれに対応するために少しだけ変わりました。この改造のためアメリカ製のソフトの中にはリバース表示などを使っている場合にカナに化けてしまうなど互換性が損なわれた部分がありましたが、概ね問題はなくiieが発売されるまでは日本では売れ続けました。

カナの刻印が見える
基板はほぼ変わらず電源もアメリカ仕様のまま。キーボードに隠れている基板に載っているキャラジェネROMはオリジナルになっている。
蓋の裏も変わらない。iieになったときにはシールド付いた。
底面にはしっかりと東レのシールが。確か基板の裏にも東レと書いてあった気がする。

時を同じくしてヨーロッパ向けにもeuroPLUSが発売され、これは主にヨーロッパのテレビであるPAL仕様に対応したもので、ここに専用のカードが挿されたので、これが理由で日本でも一番右の拡張スロットである7番スロットには汎用的なカードは挿さないという暗黙のルールが出来ました。

こうして日本でもApple][は売れていったのですが、日本製のパソコンの力は強く、結局、日本におけるApple][の販売台数は全世界の1%にも届かないシェアだったようです。東レとの関係は1983年に日本法人が出来るまで続きました。

日本法人が出来たときの所在地 - 現在はNTTデータウェーブが入っているようだ

Apple II j-plus

今更のApple II plus幻想

2022-11-28 追記

東レのくだりが以下のマンガで触れられているという話をコメントで頂いたので、読んでみました。

マンガ「スティーブズ」


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