ランナーになってくれませんか?と誰かに頼まれて走り始めたわけではない
「ランナーになってくれませんか?と誰かに頼まれて走り始めたわけではない」
村上春樹さんの言葉だ。
全くその通りで、僕も誰かに頼まれたどころか、誰かの刺激を受けて走ろうと思ったわけではない。
5年ほど前のある冬の日に、ふと"走ろうかな"と思い立った。
その勢いで3か月後のハーフマラソン にエントリーした。
エントリーしたからには走り切りたいと思って、冬の寒い中、ドイツに出張した時さえも走った。
それまで走ったことなんてなかったから当然息が切れた。
でも1か月経ち2か月経つ頃には息もそれほど上がらずに、少しつきはじめた贅肉もあらかた落ちてどうにか走れるようになった。
初ハーフマラソン は2時間7分。平凡だけど、タイムより走り切れたことが嬉しかった。というか安堵した。
帰りに自分へのご褒美にラーメンと餃子を食べた(質素なのだ)
なぜ人は走るのか?
この設問にはきっと誰もがうまく答えられないだろう思う。
決して楽しい行為では無いし、むしろ苦しみばかりだし、達成感だって最初の一、二回ぐらいで、後は達成感というより、自分に課した宿題をやり終えた安堵感に近い。
走ることは辛いことだけど、村上さんが言うように、それは"強い意志"とは関係ないと思う。
ゴールする度に、もう一歩も走らなくて良いんだとひたすら安堵する。
それでも走り続けるのは、
走る必要がある
からだと思っている。
走ることによっていろんなバランスをとっているのだと思う。たぶん。
誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。
いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん、自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある弱い人間だと言うことをあらためて認識する。
(村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』
ランナーになってくれませんか?と誰かに頼まれて走り始めたわけではない
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