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健康と文明病 ⑨(後期旧石器革命と気候変動)

中期旧石器時代から後期旧石器時代へ

 中期旧石器時代には、定型化した剝片石器の大量生産が始まっただけではなく、打ち欠いた剥片を整形する事で、非常に多種類の石器が作り出される様になります。アシュール文化では10種類程度だった石器の型式が、ムスティエ文化では小さなハンドアックス・剥片石刃・スクレイパー・尖頭器・錐・彫器など細かい仕事をする様々な石器が作られ、そのタイプが40種類にもなったのです。

 こうした傾向は、約5万年前に始まる後期旧石器時代にそのまま引き継がれ、石刃技法により大量生産された幅が狭く鋭利な石刃(ブレード)からは、繊細な加工を施された多種類の石器が作られ、その種類は約100種類にも達しました。調整石核から作り出された剥片石器がムスティエ文化の特徴だとすると、ヨーロッパの後期旧石器時代を特徴付けるのが石刃技法で作られた石刃なのです。しかも、以前には新しい石器の登場は5000年~1万年ごとだったのに対し、後期旧石器時代には2000~3000年ごとの短期間に次々と出現する様になるのです。

図69)後期旧石器時代、ソリュートレ文化(2.2~1.7万年前、フランス)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)


後期旧石器革命と気候変動

 その後、ヨーロッパでは4万年の間に少なくとも4系統の石器文化が生まれ、「考古学上空前の発明と発達の嵐に見舞われた」と言われます。さらに石器に加えて、それまでは時々出現する程度だった、骨・象牙・角を材料にした骨角器の道具が重要な位置を占める様になるのです。またこの時代には、洞窟壁画・ペトログリフ(線刻画)・彫刻・骨や象牙の彫刻など、芸術作品が一気に開花しました。遺跡も、岩陰・洞窟から開地に移り、規模も大きくなっています。この約5万年前に起こった石器文化の劇的変化は、「後期旧石器革命」と呼ばれています。

図70)ラスコー洞窟壁画(フランス、2万年前)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

図71)ブラッサンプイのヴィーナス(フランス、2.5万年前、マンモスの象牙製)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 アシュール文化のハンドアックスは、約175万年前に登場してから約160万年もの長期間に亘って、変わらず安定して作り続けられて来ました。ところが、30万年前の中期旧石器時代に入ると石器が急速に多様化し、特に後期旧石器時代には短期間に劇的な変化を遂げて行く訳です。実は、この急激な石器文化の発展が起こった時代は、地球環境が激変していた時期でも有りました。図72)を見ると分かりますが、約12~2万年前の中期旧石器時代後半から後期旧石器時代にかけて、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスが活躍した時代は、気候が急速に寒冷化して行った時期だったのです。

図72)南極EPICA 氷床コア、過去 14 万年の温度変化(単位1000年前)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 人類が誕生し進化した更新世(約258~1.2万年前)は氷河時代とも言われ、氷期と間氷期が交互に繰り返された気候変動の激しい時代ですが、最後の最終氷期が約7~1万年前にかけて訪れていたのです。その中でも、氷床が最も拡大した3.1~1.6万年前の最終氷期極大期(LGM)には、北欧・北米・アジアの大部分を巨大な氷床が覆い、乾燥化による干魃・砂漠化、そして海面の大幅な低下が起こっていました。ところがこの厳しい寒冷化と乾燥化の期間に、ヨーロッパでは後期旧石器時代の、シャテルペロン文化・オーリニャック文化・グラヴェット文化・ソリュートレ文化・マドレーヌ文化が入れ替わり繁栄していたのです。

図73)ヨーロッパ、後期旧石器時代の芸術発見地(水色:氷河の限界、赤:壁画アート、緑:ポータブル アート)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)


最終氷期極大期

 氷床が最も拡大した約2.1万年前頃には、世界の平均気温は約9℃と現在より約6℃も低く、夏でも氷が地球表面の約8%、陸地の約25%を覆っていました。また海面は、現在より約125メートルも低かったとされます。また、南オーストラリアやサハラ砂漠南側のサヘル地域では、現在と比べて降雨量が90%も少なく、植生もヨーロッパや北米の氷河期の地域と同じ程度にまで減少していたのです。

 この時代が如何に厳しい自然環境だったかは、図75)の最終氷期極大期の植生図を見ると良く分かります。ヨーロッパ北部全域・カナダのほぼ全域・西シベリア平原の北半分が、(灰色横線)で示す巨大な氷床に覆われています。一方、(濃緑色)の熱帯雨林は大幅に縮小して、アフリカではほとんど消滅に近い状況にまで追いやられ、アマゾンでは東西に分断されています。また寒冷化と同時に乾燥化も進み、(茶色格子)の砂漠が大きく拡大して、アフリカ大陸の北半分・アラビア半島全域・オーストラリア中心部のほとんどが砂漠化しています。そしてヨーロッパからロシアにかけて、広大な地域がステップ・ツンドラ(草原ツンドラ)に覆われてしまっています。

図74)最終氷期の最寒冷期(LGM)における植生(灰色:氷床に覆われた地域)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 寒冷化が最も厳しかった約2万年前頃には、図75)に見る様にヨーロッパの石器文化は南方に避難する形になっています。そして、最終氷期極大期のボトム直前の約2.6万年前頃には、ネアンデルタール人が絶滅しているのです。

図75)ヨーロッパ最終氷期最盛期の文化(2~1.5万年前、茶: ソリュートレ文化、赤紫: エピグラヴェット文化、白:氷床、緑:海水面低下で拡大した陸地)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)


ヒトの進化と気候変動

 興味深い事に、この厳しい気候変動に見舞われた将にこの時代に、人類の祖先は石器など道具の多様性を一気に拡大し、次々と新たな石器文化を誕生させながら、様々な芸術作品を量産し始めていたのです。ここで思い出されるのが、人類誕生の経緯です。最初のホモ属は、気温が急速に低下し出した約260万年前の更新世初めに登場しました。そして、オルドワン石器を発明して肉食を開始した訳です。その後、約200万年前にはホモ・エレクトスが登場して、ランニングに適応する事で、猿人の類人猿的な骨格をヒト的なものに進化させる事に成功します。そして、走る狩人として本格的な狩猟を開始するのです。

 つまり、急激な気温低下・乾燥化という気候変動に起因する生態系の激変に直面し、これまで通りの生活が困難になった時、人類の祖先は新たな生活の糧、新たな食糧源を求めて生き残りを賭けた模索を始めたのです。その悪戦苦闘の中で石器を発明し、サバンナでの肉食者という新たな生態的地位(ニッチ)を確立して、猿人からヒトへの進化を成し遂げた訳です。

 ここには、急激な気候変動によって生態系が大きなダメージを受けた時、生態系自体が大きく変動する中である者は絶滅し、ある者は異なる生態的地位に適応する事で生き残りを図り進化を達成するという、地球史の中で幾度と無く繰り返されて来た生物進化の物語が刻まれているのです。

 最終氷期の人類も、厳しい気候変動の中で生活の困難に直面し、何とか生き延びようと食糧源の多様化や狩猟技術の改良に取り組んだ事でしょう。それが石器などの道具の急激な多様化を生み、生活様式を大きく変えて行ったと思われるのです。ホモ・サピエンスが活躍した後期旧石器時代には、大型哺乳類の季節移動を利用した狩りや、最終氷期極大期以降には、アカシカ・ウマ・トナカイ・バイソン・オーロックス・アイベックス・ケナガマンモスなどの群れを自然の崖や袋小路に追い込んで、群れごと大量殺戮する事も行っていた様です。また、季節的に豊富な魚を利用する事も一般化します。大型動物が不足した時には、小動物・水生資源・植物に大きく依存してする事も有った様です。

 狩猟用の武器も一気に技術改良が進み、骨・枝角を槍先に使用した投げ槍が作られ、最終氷期極大期までには投槍器が発明されます。これにより、投擲の威力と精度が飛躍的に向上しました。また、マンモスの牙で作られたブーメランも作られ、骨角器の銛は季節的なサケの回遊ルートに沿ってよく見られます。

図76)投槍器の使用

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

図77)マンモス型の投槍器の台尻(マドレーヌ文化、1.7~1.2万年前)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

図78)銛の先端(マドレーヌ文化、1.7~1.2万年前)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 こうした狩猟方法や技術・道具の革新の結果、氷河期の厳しい自然環境に適応して食料の確保と生活の安定がもたらされ、それが芸術作品に結実したのではないでしょうか。実は、最終氷期ともほぼ重なる後期旧石器時代の始まりは、ヨーロッパでの人口の大幅に増加で特徴づけられており、ネアンデルタール人からホモ・サピエンスへの移行で、西ヨーロッパの人口は約 10 倍に増加したとも言われているのです。この氷河期の厳しい時代に、人類は大きく発展していたのです。

 約200万年前に本格的な狩猟を始めたホモ・エレクトスは、約175万年前には狩猟専用の武器としてハンドアックスを発明しました。この画期的な石器は、以後160万年もの長きに亘って作り続けられる事になります。こうして、森を出てサバンナに進出した直立二足歩行をする類人猿に過ぎなかった猿人が、石器の発明とランニングに適した骨格を進化させる事で、肉食のサバンナの捕食者に生まれ変わったのです。

図79)ドマニシ原人(H.エレクトス・ゲオルギクス、185 ~ 177 万年前)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 アフリカ以外で発見されたホモ属の最古の化石は、185 万年前のジョージア(旧グルジア)のドマニシ原人です。この事実は、約200万年前に誕生したホモ・エレクトスが、その直後にアフリカを出てヨーロッパ・中東・アジアへと進出し始めていた事を示しています。草食動物の場合、生息域はその適応した植生によって制限されてしまいます。しかし、植物食から肉食の捕食者に進化したホモ・エレクトスにとって、獲物さえ居れば草食動物の様な生息域の制限は受けません。

 しかもホモ・エレクトスは、様々な動植物を食糧源にしていました。ホモ・エレクトスの遺跡では、しばしば中型から大型の狩猟動物の、ゾウ・サイ・カバ・ウシ・イノシシなどが一緒に発掘されます。また、イスラエルの約78万年前のゲシェール・ベノー・ヤコヴ遺跡では、55種類の果物・野菜・種子・ナッツ・塊茎などが食べられており、そのままでは食糧にできない植物材料も火を使って調理していた言います。その他、カメ・ワニ・ナマズなど、両生類・爬虫類・鳥・水生.陸生無脊椎動物も食べていました。他の肉食動物の場合は、獲物にする動物に合わせて体を進化させて来ました。それに対して、道具を改良する事で様々な獲物に対応する事を学んだ人類は、生態系の障壁を超えてあらゆる動植物を食糧源にする事が可能になったのです。

 こうして、石器と言う強力な武器を手に入れた捕食者のホモ・エレクトスは、誕生直後には早くも獲物を求めて世界征服の旅に出る事になります。以後、人類は世界のあらゆる場所に、獲物を求めて進出して行きます。昔懐かしいジャワ原人や北京原人は、この時世界征服に旅立ったホモ・エレクトスの子孫だったのです。

図80)人類の世界への拡散(黄色:ホモ・エレクトス、 黄土色:ホモ・ネアンデルタレンシス、 赤:ホモ・サピエンスの分散)

(出典:ウィキメディア・コモンズ)

 その後も、人類は道具を進化させる事によって、次々と襲って来る困難に立ち向かって行きます。そして、1.2万年前に氷河期が終わり完新世に入ると、気候が急速に温暖化すると同時に、それまでの激しい気候変動が治まり安定化して来ます。こうした中で、人類は新たに誕生した生態系の環境に適応し、今度は狩猟から農耕牧畜に食糧源を転換して、現在に続く文明を築いて行く事になります。

 捕食者として誕生した人類は、道具を使用する事で、生態系の障壁を乗り越えてきました。今度は、農耕牧畜によって生態系そのものを作り替えて行く事になるのです。

(つづく)



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