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旗片の風

 浅草奥山の楊弓場に、男が軍靴の音高らかに足を踏み入れた。一様に振り返った客も女たちも、男を見るなり阿呆の様に固まった。黒黒とした外套も、星煌めく制帽も、この場にあまりに似つかわしくなかったからだ。
「ここに、決して矢に当たらない矢取り女がいると聞いた」
 朗々とした声に、店主が慌てて飛び出して、頭を下げて答える。
「へえ、確かに」
「その女に相手してもらいたい」
 もちろんでございます、と言おうとした店主を「お待ち」と、凛とした声が遮った。
 矢場に並んだ的の前に、艶やかな振袖がひるがえった。砂を蹴る白い素足に男達の目が次々と釘付けになる。
「あたしを買えるのは、あたしを射止めた男だけ。お相手をと仰るならば、見事射止めてくださいまし」
 そう言い放つと、まるでそれが当たり前のことのように、堂々と的の前に立った。
 軍人は外套の内に手を入れる。取り出された一丁のピストルを見て、傍にいた男が小さく息を呑んだ。
「これでもかまわんか」
 僅かの逡巡の後、女はゆっくりと首肯した。挑発するように顎を上げ、軍人をにらみ返した。
 静まり返った弓場に、撃鉄の上がる音が響く。女までの距離は約六間。正式な弓場よりずっと近い距離を、二人は睨み合う。傷一つない女の背には、穴の開いた的と壁。射ることができない女に、果たして銃弾は当たるのか。その答えを待ちきれないとでも言うように、男は引き金を引いた。

 鼓膜つんざく銃声の響き。
 お由ちゃん!という女の悲鳴。

 的の前に立つ女の結い上げた髪が、バラリと肩に散った。
「……あんたの勝ちだよ」
「俺は負けた気分だよ。確かに額を狙ったのにな」
 愉快げな男に、由と呼ばれた女は舌打ちした。
「とはいえ勝ちは勝ち。お前を買っていくぞ、お由。身受けだ」
 軍人はお由の前に立ち、肩を掴んで引き寄せる。その耳元で、彼女にしか聞こえない声で彼は言った。
「お前には俺の部隊の旗手になってもらいたいのだ」

【続く】


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