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脇見歩きのつぶやき:妙見信仰と源満仲


星の宮と能勢妙見山


前回、「星の宮」の記事で辿ったあたりです。

Google Eath より、スクリーショット; 阪急池田駅南側あたりの上空から北方向
右下に「星の宮(明星太神宮)」があり、五月山のかなたの山並みに「能勢妙見山」が見えます。
アヤハ神社は「秀望台」の下「綾羽」のあたり。左側に見えるのが猪名川で、
クレハ神社は画面左下、左側からはみ出しているところにあって見えていない。

 五月山の山並みの北側約12kmの所に能勢妙見山があります。
地上の「星の宮」からは、五月山の山並みに隠れて見えません。
五月山展望台や日の丸展望台まで登れば見えるのでしょうね。
かつて何度か登ってはいますが、その頃は展望台からの景色を見て一息、程度で、関心がなく、今度確認しようと思います。

 星の宮の織殿に星々が降ってきて明るく照らした、という説話は、応神天皇の御代(5世紀と思われる)ではなく、後代の民間説話と考えられるのでで、この説話は妙見信仰と習合してできたものではないでしょうか。

能勢妙見山について、Wikipediaによると、

当山の歴史は天平勝宝年間(749年[3] - 757年)に、為楽山(いらくさん、現・妙見山)の山頂に、行基が大空寺を建立したことに始まるとされる。

平安時代の986年に、妙見菩薩を信仰していた源満仲が屋敷で祀っていた鎮宅霊符神像(妙見菩薩の別名)を、当地へ遷座した。その後、満仲の孫である源頼国が能勢に移住して能勢氏を称し、この地の領主となると、当地の妙見菩薩を篤く信仰した。

Wikipedia:「能勢妙見山(日蓮宗)」

妙見信仰については、電子辞書のブリタニカから

【妙見信仰】
 北極星を神格化した妙見菩薩に対する信仰。日本の密教では、この菩薩を本尊とし、眼病平癒妙見法(北斗法、尊星法)という修法を行う信仰がある。

電辞書:ブリタニカ国際大百科事典

 上部左寄りの所に「東多田」という地名が見えますが、そのすぐ東に能勢電鉄妙見線の多田駅があって、その東1kmちょっとの所に多田神社があります。

最初は、茨木童子から

 多田神社は、天禄元年(970)の創建で、元多田院とも、また、多田大権現社とも言われ、明治の神仏分離令により多田神社になりました。

 御祭神は、清和天皇の曾孫、将軍源満仲公をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の五公をお祀りしています。

 そもそも、私がこのような脇見歩きを初めたのは、茨木童子が絡んでいます。茨木童子に関する「ごたく」は、またの機会に置いておいて・・・
 ここでは、茨木童子が弟子になったという、酒呑童子の話です。

「茨木童子の素顔に迫る」大橋忠雄 明石書店 2011
 と
「まんが訳酒呑童子絵巻」大塚英志 監修、山本忠宏 編 ちくま新書
から、簡単に紹介しておきます。

 酒呑童子退治に向かう源頼光は、源満仲の長男です。

酒呑童子

 茨木童子が最も早く登場するのは『御伽草子』に語られる「酒呑童子」においてである。

「茨木童子の素顔に迫る」

平安時代は一条天皇の治世のこと。都の貴族の娘が次々と姿を消す事件が起き、占いの名人・安倍晴明が、伊吹山千丈ヶ岳に棲む鬼の仕業と突き止めた。(伊吹山系と大江山系の御伽草子があり、「まんが訳・・」の方は、伊吹山系に基づいている)早速、源頼光らに退治の勅命が下る。

「まんが訳酒呑童子絵巻」

酒呑童子一味討伐の勅命を受けて、大江山の鬼の岩屋についた源頼光(と渡辺綱など四天王)たちは、道に迷った山伏であると説明し、酒呑童子に一夜の宿を乞う。その夜頼光たちは酒宴のもてなしを受ける。
 頼光は酒の肴にとして出された人の腕と股の料理もうまそうに食う。頼光はその返礼に「神便鬼毒の酒」を酒呑童子にすすめる。この酒、

「茨木童子の素顔に迫る」

このシーンを、「まんが訳 酒呑童子絵巻」より
まんがの絵は、新たに起こしたものではなく、絵巻そのものからカットしたものだということです。

 酒呑童子の家来になっていた茨木童子は、右腕を渡辺綱に切り取られますが生き延びて、その後、綱屋敷に右腕を取り返しにくるわけです。

 というわけで、源頼光が祀られている多田神社を、2011年10月に自転車で尋ねました。

多田神社

 尼崎池田線から県道12号沿いに北上、右手に見える多田神社の鳥居をくぐり、猪名川を渡って多田神社へ

酒呑童子の歌が境内に掲げられています。

右の看板の唄の、写真にかけている部分:
「源頼光公 大江山鬼退治の唄」のタイトルで、 
「一、昔 丹波の大江山 / 鬼ども多く こもりいて / 
都に出ては人を喰い / 金銀や財宝を盗みゆく」


酒呑童子の首を洗ったという鬼の首洗い池があるとのことですが、行きそびれました。

 本殿に、満仲の御廟所が鳴動して、江戸時代まで続いた、との説明書きがあります。

多田神社 本殿

  
群発地震があったのでしょうか。こういうことも、次に述べる九頭竜伝説の基になったのでしょうか。


九頭竜伝説


  平安時代中頃、当時摂津守であった源満仲が新しい館をどこに築くか、住吉大社に参籠したところ、「北に向かって矢を射て、その矢の落ちたところを居城とせよ」とのお告げがありました。
 そこで矢を放って、その矢を追って探していると、矢の落ちた場所を知っているという老人に出会いました。教えられた場所に行ってみると、大きな沼に九頭竜がいて、その目に矢が刺さり、苦しみもがいて暴れまわっていました。そして、堰を切って沼から逃げ出し、ついに力尽きて死んでしまいました。
 九頭竜とともに流れ出した水の後には、よく肥えた土地が残り、いつしか多くの田ができたことから「多田」という地名がつけられた、ということです。

満仲公矢文石


 僕は、この伝承を読んですぐに、どこから矢を放ったのか気になり、「多田神社、九頭竜」で調べてみたのですが、すぐにはヒットしません。
 しかしついに見つけました。尼崎の久々知須佐之男神社の境内です(写真)。早速行ってみました。JR尼崎の北約1km、近松公園の裏手(西側)です。




 この神社は、平安時代の957年、多田満仲の勧請により建立された、とあり、江戸時代には久々知妙見祠(くくちみょうけんやしろ)という名でしられていました。満仲は北斗妙見菩薩を厚く信仰しており、まさにこの真北に多田の地があります。境内に、矢文石(やぶみいし)と名付けられた石があって、満仲がこの石に足を掛けて矢を放ったと伝えられています。


石碑の文字は「多田満仲公矢文石」と読める、ような気がします。

おまけ:三ツ矢サイダー


 時代は下って、三ツ矢サイダー創業の話です。
 1884年に多田村の北にある平野から湧き出た炭酸水をびん詰めして製造し始めたのですが、満仲が放った矢が落ちた場所を教えた土地の人に、満仲の矢という意の「三ツ矢」の姓と、三本の矢羽の紋を与えた、という故事に習って「三ツ矢平野水(ヒラノスイ)」と名付けて発売した、とのことです。