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メタ認知について その1 離見の見

メタ認知とは


自分のことを幽体離脱したように引いた目線で捉えることをメタ認知と言います。
(俺は今、なんとなくイライラしている。ちょっと落ち着こう)
とか
(なんかいつもより浮かれ気分になっているなぁ。あいつがいるからかな)
というような感じで、自分のことを客観視すること。

その能力を高めれば、気分に左右されて失敗することも減るだろうし、自分に必要な能力が何なのかを見極め、適切な努力もできるようになると信じている。

我見・離見・離見の見


俺の中のスーパースターのひとり、世阿弥
さすがは世阿弥先生。千年近くも前にその概念にたどり着いている。
我見とは演者である自分の視点。
離見とは客席から視聴者の視点。
そして、離見の見なのだが、その言葉の解釈は現代語訳の人によりかなり分かれる。
ネットを見ていても、解釈はそれぞれ。
ある人は離見している目、そのものを離見の見と解釈しているが、うーん、俺の世阿弥はそんなものだとは思わない。その程度では天下は取れないし、秘伝の書にもならない。

我見と離見を包括して、さらなる高い目線、広くを見渡せる視点。果には肉眼では見えないところまで、見るように努めるというが離見の見という解釈がしっくり来る。

ちなみに武智流解釈は明日書きます。


離見の見登場の原文はこちら (花鏡より)

舞に、目前心後と伝ふことあり。「目を前に見て、心を後に置け」
となり。これは以前申しつる、舞智風体の用心なり。見所より見る所の風姿は、わが離見なり。しかれば、我が眼の見る所は我見なり。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所はすなはち見所同心の見なり。その時は、我が姿を見得するなり。しかれども、 目前左右までをば見れども、後姿をばいまだ知らぬか。後姿を覚えねば、姿の俗なる所をわきまへず。
さるほどに、離見の見にて、見所同見となりて、不及目の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。これすなはち、心を後に置くにてあらずや。かへすがへす、離見の見をよくよく見得して、眼、まなこを見ぬ所を覚えて、左右前後を分明に案見せよ。さだめて花姿玉得の幽舞に至らんこと、目前の証見なるべし。
担板感に伝はく、「そうじて舞、働きに至るまで、左右前後と納むべし。」

豆知識
室町時代の申楽(ざっくり現代の能)の世界はかなりやばいバトルを繰り広げていたらしい。申楽チーム同士が日替わりに演技でバトルして、負けた方はお家断絶やら追放やら島流しやら、けっこう辛い仕打ちをうけ、一族と従業員を路頭に迷わせる結果になったらしい。
現代で言えば、アメリカのヒップホップのバトルに近いかもしれない。殺されかねないレベル。
その必勝法が門外不出の秘伝の書である風姿花伝や花鏡に込められているのだから、ハンパない意気込みで書かれているはず。
そんな素晴らしい秘伝の書を読める現代人の俺はしあわせです。

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