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日清戦争前後の貿易と経済政策

 明治10年代のインフレの克服を契機として、産業の機械化が押し進められる一方、農村における農民層の分離もあいまって、20年代に入って、綿業・絹業などの軽工業の近代化が達成されたことにより、産業資本の近代化が確立された。そして、日清戦争における勝利は、さらに日本の資本主義に飛躍的発展をもたらした。
  

 この資本主義の発展によって、貿易は急激に増大した。
1890年(明治23年)~1900年(明治33年)の10年間で貿易総額は3.5倍近く増加しており、特に日清戦争を契機として急激に増大している。
なお、貿易上の帳尻をみてみると、1890年~95年までの輸出の増進度は相当に高いのに比べ、輸入は停滞的傾向を持っていた。輸入が停滞していた理由の一つとして挙げられるのが、銀価の下落である。銀価は1873年頃より下落を開始し、金1に対して銀15の比率であったのが、95年には金1に対して銀31.6の比率となっていた。銀価の下落は、銀本位制を採用している日本の、金本位国に対する為替相場の下落を意味する。つまり、金本位国に対する輸出が一時的に促進され、輸入が阻害されることになったのである。

 このような銀価の下落は、日本の貿易の発展に大きな影響を与えた。しかし、貿易の発展は銀価の下落によるものだけではなく、軽工業を中心とする近代産業の確立・運輸交通業の発展などの、日本における資本主義の確立を反映したものでもある。

 このような貿易の発展の背後にある、政府の貿易政策の中心目標は、貿易商権の確立であり、その前提として、不平等条約の改正を達成する必要があった。91年に陸奥宗光外相がイギリスとの交渉を始め、94年には条約改正を主旨とする日英通商航海条約を締結し、日清戦争の勝利の影響もあって米・伊・露等の14国とも逐次新条約を締結し、相互対等を主旨とする国際関係に一歩進んだのである。日清戦争直前には、貿易の約8割は外商によって占められたが、戦後しばらくして約4割が邦商取扱となった。日清戦争後における商権回復の進歩は顕著であったといえるだろう。

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