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中編・短編小説集

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kazumaの中編・短編小説集です。
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#もの書き

「バナナフィッシュのいない夏」

 ある男が浜辺の階段に腰掛けている姿を望は何度も見かけた。その男はいつも朝早くにやってきて、ちょうどきっかり七時になる前にいなくなる。海の底に引きずり込まれる貝殻のように跡形もなく姿を消し、翌日には何事もなかったかのように階段に腰掛けている。望は浜辺の遊歩道をひとりで歩いていた。学校指定の紅と白のラインの入ったジャージを、二の腕が見えるまで捲り、先を歩く犬のカノンの後を追って。早朝の遊歩道には殆どひとがおらず、すれ違うのは目深に帽子を被ったランナーばかりだ。塩気のある潮の匂い

「ハイライトと十字架」

 壁掛け時計の針が秒を盗む。午後十一時五十八分。オフィスビル八階。真白杳は事務用チェアの背もたれに体を預け、天井のタイル目地を眼で追っていた。壊れた蛇腹のブラインドの間から月の光が僅かに差し込んでいる。真白はデスクトップパソコンのキーボード上に指を乗せたまま、無意識に人差し指の腹で同じキートップを叩き続けていた。画面上には、繰りかえされる『G』の文字があった。時計の秒針が、はめ込まれた硝子の内側で滑らかに廻りつづけた。  窓際の座席には既にマグの底で干涸らびている徳用紅茶のテ

『赤い風船、笑うピエロ』

 遊園地の一角で、赤い風船がひとつ、子どもの指先を離れ上空へと向かって昇っていった。 「おかあさん、あれ!」  デニムのつなぎを着た少年は、いまにも泣き出しそうな顔でつま先立ちをし、飛んでいった風船を指差している。西洋風の造りものの城の壁を這うようにして、風船は高く昇っていく。その少年の傍らでピエロの格好をした、太田という男が、なすすべもなく頭上を見上げていた。  パレードの号砲が鳴り響く。指を差していた少年は途端に目を見開き、たったいま正気に戻ったかのように、背筋を伸ばし、