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Knock Knock

武蔵野美術大学の文化祭(通称芸祭)に行ってきた。

月並みだが、ひとつひとつのモノやコトというのは、誰かの手によって作られているということを強く感じる日だった。エントランスゲートの設えから始まり、サークルによるダンスや演奏、マーケットエリアに並ぶ作品、飲食エリアのフード類まで、いずれも学生たちの制作物である。もう一歩踏み込んで見ていくと、出店の什器、誘導掲示、会場BGM、時折会場全体に流れてくるアナウンス台本なども、いちいち丁寧に作られたものであるという印象があった。また、初日が終わった後すぐ、SNSではVlogが公開されていた。

「モノや情報が溢れる時代」というクリシェがある。多くの場合後に続くのは「だからこそ良いものしか売れない」とか「よりわかりやすくないといけない」というようなまた別のクリシェだろう。
間違っているとは言わないが、いつも幾らか違和感を感じている。責任のウェイトが制作者側だけに偏りすぎてはいないか。

そこで、善い受容者でありたいと思う。欲望や市場ニーズだけでモノやコトの価値を測るのではなく、できる限り多くのものを正しくおもしろく受容したい。ややイノセントすぎるきらいがあるとしても、つくるという行為自体に掛け値なしの素晴らしさがあるという前提でありたい。
自分の仕事に引きつけて高弁を垂れるなら、制作者である学生にだけ説明やそのわかりやすさを求めるのではなく、受容する自分の眼に曇りがないかどうかも、常に同時に俎上に載せるようにしていきたい。一緒に行ったReDesignerのメンバーが「そりゃこんだけのことをしていたら、就活だけに集中するのは難しいよな」と漏らしていたことが印象に残った。正しい受容だと思う。

学生のレベルが下がっただの、美大生は就活に積極的ではないから社会性がないなどとステレオタイプな愚痴を吐く際、我々社会の側が彼らの制作や生活を正しく受容/観察できているのかという省察がこぼれ落ちている、という反省がある。
彼らがもう少しだけ制作に集中できてもいいように、我々の側が彼らをディグりに出かけるような努力が必要かもしれない。自分たちの学びや習作が学校の閉じた世界で完結しているものではなく、既に社会と接続されていると気づく/気づいてもらうための、共同作業がもう少しあるとよい。それも、学生がビビらず社会に出られる透明性だけではなく、ノックで生まれてくるような共同作業が。


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