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作為と自然と――長い時間をかけて紡がれるもの

作為のないものを書きたい。
そんな思いに、しばしば駆られる。

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先日、ある人物ルポを読んだ。

それは、志を持って、仕事を続けている人を取材したものだった。十分な下調べをして、インタビューしたものだということがうかがえた。相手の言葉を丹念に取り上げ、エピソードをうまく連ねている。取材時の景色が見え、ライブ感も伝わってくる。

私が考えるノンフィクションの大切な要素を、その文章は満たしていた。

資料や文献を「読む」
現場を「歩く」「見る」
相手から話を「聴く」
自分が「感じ」「考える」
そして、それらを的確な言葉と構成で「書く」

件のライターの文章は、このどれもすべて兼ね備えていた。しかも、高いレベルにおいて。

だが、どこか物足りなさも感じた。
これが「ほんとうのこと」なのだろうか、と。

事前の準備から取材、執筆に費やした時間だけで、ひとりの人が描かれることに不全感を覚えたのだ。

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思えば、私もこれまでそうした仕事を重ねてきた。

約束してもらった日に、相手に会い、話を聴き、書き留めてきた。先に挙げた「ノンフィクションの大切な要素」を念頭に、より良いものを追求してきたつもりだ。読者や取材相手から感謝されたことも何度かある。

しかし、果たして、それだけでいいのかという気持ちが最近、強くなっている。

長い付き合いの中から、おのずと書きたいと思うもの。そんな作為を感じさせないものが書けないだろうかと。

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たとえば、最近、再読した哲学者・鶴見俊輔さんへの聞き書き本『期待と回想』(1997年)。

当時、70代だった鶴見さんに、その生涯を3人が代わる代わる聞き手になって尋ねている。京都で「文体研究会」というサークルを10年以上続けていた間柄である。しかも付き合いはそれ以前からで、例えば聞き手の一人、北沢恒彦さんは1960年代のベトナム反戦運動など、さまざまな場で鶴見さんと行動を共にしていた。

同じく聞き手の一人、塩沢由典さんはこう綴っている。

「(鶴見さんが)いろいろな座談の中で話されることで、活字になっていないことがかなりあったし、現在の時点にたって、過去に書かれてきたことを振り返ってももらいたい」と思いつつ、「自身が、主役になって自分のことを語ることを、かなり渋られるのではないか」と様子をうかがっていたという。

そして、それから2年後、全集が刊行されたのを機に、改めて構想を練り、鶴見さんの同意を得て、ようやく実現に至った。付き合いから数えれば、30年以上の歳月を経て、この本は上梓されたことになる。

単行本で刊行された当時は上下巻、文庫版にして700ページ近い大著。
そのボリュームはもとより、聞き手の問いも、それに対する鶴見さんの話も相当に深く、広がりがある。それぞれの豊富な知識と経験、さらに付き合いの歴史が、この本を形作っている。

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「十年残る作品でなければ、本として世に送り出す意味がない」

敬愛する編集者の言葉を、以前、ここでも紹介した。

長い付き合いの中から自然に紡がれるもの、そして、長く読み継がれるものを書きたい。

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