もしも自動車運転免許がS級ライセンスだったら
プロサッカー監督における"運転免許証"である「S級ライセンス」が機能しているか否かを検証するために、自動車運転免許を比較対象としました。2つの「運転免許」の共通点や相違点を元に検証をすると、S級ライセンスの問題点が浮き彫りになり、それらが日本サッカーの発展を妨げる原因になってしまっていることが明らかになります。
■S級ライセンス
『日本にナーゲルスマンが居ない理由』では、日本のS級ライセンスには「お金」「人脈」「時間」という3つの制約があること、そしてこれが様々な問題に波及し、日本サッカーの発展を妨げる原因となっていることは既に言及しました。
これらを前提に、読んでいただければと思います。
■運転免許
私たちが「持つことが当たり前」と言っても過言ではない自動車運転免許ですが、最新のデータでは(平成29年)82,255,195人もの人が所有していることが発表されています。
ポイント①:なぜ私たちは運転免許を若いうちに取得するのか?
一般的に私たちは、学生のうち、もしくは社会人になる前に運転免許を取得します。それがなぜなのかを整理すると、S級ライセンスの矛盾点が見えてきます。
私たちが運転免許を若いうちに取得する理由は「社会人になったらまとまった時間が取れないから」です。社会に出てしまえば、ほとんどの人が最低週5日は働くことになるかと思いますが、平均1〜2ヶ月間のまとまった時間を有する運転免許の取得は、社会人になってからではなかなか難しいのが現状です。(一般的に)年齢を重ねていくほどまとまった時間が取りづらくなるという事実は、私たちサッカーの指導者でも変わりありません。「まとまった時間が必要」という条件は、運転免許もS級ライセンスも同様ですが、運転免許の場合はお金(もちろん安くはないですが届かない金額ではない)、または人脈という制約がないため、矛盾点がありません。
■アルゼンチンの監督養成
例えば私が通っているアルゼンチンの監督養成学校では、資金は高価ではなく、人脈も必要なく、授業は月・火・水曜日の19:00〜です。仕事や選手をしながら他の受講者は通っています。よって、仮に若いうちに取得ができなかったとしても、「まとまった時間」が必要ないので矛盾点はありません。
■日本の監督養成
一方日本サッカーのライセンス制度では、まとまった時間が必要な上に、お金や人脈の制約があるため若い段階での取得が難しく、「じゃあいつ取得すればいいのか?」という矛盾点が存在しています。
ポイント②:運転免許が若いうちに取得できなくなったらどうなるか
もしも運転免許が、日本のS級ライセンスのように「お金」と「人脈」などの制約があり、若いうちに取得することが難しくなった場合どうなるのか、を考えます。「(まとまった)時間」という制約をクリアするには、若いうち(まとまった時間をとることが比較的容易な時期)に取得する必要がありますが、もしも運転免許がS級ライセンスと同じ状況に置かれた場合、以下のようなことが起こることが予想されます。
■取得人数が減る
社会人になる前に、もしくは組織での責任が増えまとまった時間が取りづらくなる前に免許を取得することが出来なかった場合、「そのまま運転免許を取得しない」という選択をとる人が増加します。例えば東京に住んでいる場合「免許を取得しなくても・・・」という状況(他の交通手段があったりレンタカーがあったり)ですので、現在よりも「免許取得者数」が減っていくことが予想されます。
これが今の日本サッカーに起きている現象です。いくら能力があり、S級ライセンスを取得するべき人材であっても、「まとまった時間が取れないことによってライセンス取得が出来ない指導者」が多く存在してしまう可能性があります。そうなると、どうなるか。
■人材を逃す
「免許を取得しなくても・・・」という状況であることは日本サッカー界も運転免許も変わりません。つまり今の日本サッカー界は優秀な人材を多数逃している事になります。全員にチャンスが与えられるという前提があるからこそ「実力の証明」として機能するわけですから、「お金がある人だけが取得できるS級ライセンス」や「まとまった時間が取れる人だけが取得できるS級ライセンス」、「コネがある人だけが取得できるS級ライセンス」は、そもそも「実力の証明」としては機能してないことがわかります。プロ監督になるべき人材が、あらゆる制約があるために育成のコーチをしていたり、レベルの低いカテゴリーで監督をしているケースが日本では発生してしまいます。
そしてさらに、以下のような問題に発展します。
ポイント③:知識なしで"運転"をする人
もし運転免許が多くの制約によって取得が難しくなった場合、「知識なしで運転をする人(違反を犯してまで運転する人)」が増加します。「お金がない」「まとまった時間がない」「人脈がない」という理由で運転免許の取得が難しかった人が、それでも「どうしても運転しなければならない」状況であった場合、無免許の状況で運転をする選択をします。そうなると、何が起こるか。当然、「事故」が増えることになります。
上図の様な「共通認識」を持っていない運転手が増えますので、非常に危険な状態です。ウィンカーを出さずに曲がる運転手が増えるのです。
これを日本サッカーに置き換えて考えてみます。
サッカーという競技と日本が向き合う上で大切な「共通認識」が持てないという状況になります。
もちろん運転免許のように全員が取得しなければならないものと、S級ライセンスが全て同じだとは思わないですが、少なからず今の日本サッカーの状況と完全に一致します。基礎的な知識を持ってない、または選手(人間)をしっかり教育をすることが出来ない指導者が増えてしまいます。それは「事故」を多発させる原因になりかねません。
ポイント④:別々に活動をする
この様な状態ですので、S級ライセンスを運営するJFA「側」と、ライセンスを取得出来ない、もしくは方法論に納得がいかずあえて取得しない「側」の指導者が「別々にサッカーを考えて別々に日本サッカーに関わる」という状況が生まれてしまっています。私たちの様な小国が、この様な状態で世界に勝てないことは明らかです。
もちろんプロを指揮するS級ライセンスに関しては、運転免許の様に基礎的な知識のみで取得が出来る状況にするべきではないと思いますが、実力以外の構造的制約がある時点で、あまり機能しているとは思えません。
ポイント⑤:もしも教習所が一つしかなかったら
今の日本サッカーのS級ライセンス制度はJFAという一つの組織が運営をしていますが、もし同じ様に運転免許の教習所が日本に一つしかなかったら、一体どうなってしまうでしょうか?
■順番待ちが発生する
車の免許を取得したい人は全国に大勢いますので、もし教習所が一つしかなかったら当然「順番待ち」が発生することになります。「順番待ち」という概念を人間が持つとどうなるか。優先順位をつけます。それが「整理券」や「特別待遇」の正体です。
今のライセンス制度では順番待ちが発生しているので、当然「元プロ」という肩書きがある人間や、「コネ」という整理券を持った人間が優先される状況が起こっています。しかし、それは本当に正しい状況なのでしょうか?順番待ちの状態が発生してしまうのであれば、少なくとも全員が平等な状態にするべきです。でなければ優先順位をつけられない優秀な指導者に、いつまでたっても順番が周ってきません。サッカーにおいては、その間に「野心」というものも同時に失われていくことに気づかなければなりません。
■競争率の欠如
各教習所がキャンペーンを打ち出す理由は、もちろん生徒がこなければ教習所が成り立たないからです。上の例では「教習車にアウディ導入」という魅力を足すことで、他の教習所と差別化を図っています。これは「競争率」という利点を生みます。もしも教習所が全国に一つだったら、この様なことをする必要はありません。
競争率は組織の成長をもたらします。例えば私が今いるアルゼンチンの監督養成学校の様に、国内に同じカリキュラムを持った組織がいくつか存在しているとします。それは良くも悪くも多少の優劣をもたらします。もし日本サッカーのライセンス制度が同じ様な状況になった場合、より「優秀な教官」がいる教習所には人がたくさん集まるかもしれませんので、「優秀な教官」を目指す指導者や、それを育てようとする組織がでてくるかもしれません。それだけでなく、「〇〇監督を育てた」という実績が多くある「教官」が現れた場合、「優秀な教官」が露わになりますので、それらは日本サッカーの発展を助けます。つまり「指導者を育てる指導者」のレベルが上がってこないことには、日本で優秀な指導者が育てられることは一生ないのです。
■一点集中
日本に一つの政党しかなかったら…と想像するとゾッとしますが、日本サッカーは今同じ状況です。一つしか組織がない場合「(指導者養成に関して)もしかしたら間違っているのではないか?」と疑うことが出来なくなってしまいます。同じカリキュラム(法律)で動く別々の組織が存在していることでのみ「疑いを持つ」という極めて重要な思考をもたらします。日本サッカーの現状は、一つの育成組織が間違った選択をしていたとしてもそれに気付かず、もし気付いた人間がいても言及をすることが出来ない極めて危険な状況です。そうなると先述した様に「割れる」という現象が起きてしまうのです。
ポイント⑥:"カリキュラムが同じ上で"別の人間が教えることの価値
私は「カリキュラムが同じ上で、別々の人間が別々の人間を指導し、微妙なニュアンスの違いを生む」ということが非常に重要だと思っています。それと似て非なるものが「同じカリキュラムを受けていない状態(共通認識を持っていない状態)で、それぞれがぞれぞれの独学で指導をしている」という日本サッカーの現状です。
「カリキュラムが同じ上で、別々の人間が別々の人間を指導し、微妙なニュアンスの違いを生む」というのは、「良い」個性を生み出します。教官が生徒に与える個性かもしれませんし、受講環境の違いや、同じ時期に受講している生徒同士が生み出すイノベーションの違いによる個性かもしれません。違う人間が指導をすれば必ずそこに「ニュアンスの違い」が発生します。私はこれが、日本人監督に必要な「個性」を生み出すことを助けると確信しています。
田舎町で免許を取得した人と、都会で免許を取得した人の運転に違いが出てくること(環境の違いが生み出す個性)や、同じ教習所内でも教官によってウィンカーを出すタイミングが微妙に違うこと(教官が生徒に与える個性)をイメージして頂ければわかりやすいのではないでしょか。
■良い個性と悪い個性との違い
「俺はウィンカーを出さない方が楽に運転できるからウィンカーを出さない」というのが悪い個性です。前述した「無免許で運転をする」に至った、日本の交通ルールという共通認識を持っていない運転手が、この様な個性を持ってしまう可能性があります。それとは対照的に、駐車の際「どのミラーを見て行うか」や「どの様なハンドルさばきをするか」といった様な"絶妙な個性"を持つ必要があります。カリキュラムとして「見なければならないミラー」や「ハンドルの握り方」という正解を示されますが、実際に運転してみるとそれぞれの「駐車しやすい方法」があることに気づきます。一度「共通認識」を頭に入れた上で、自分で方法論を作っていくことが重要です。
日本人監督には、この様な個性が、世界の監督に比べて欠落しているのではないかと私は考えます。
ポイント⑦:教習所内での練習と、道路での練習の違い
『日本にナーゲルスマンが居ない理由』の中でも、日本人が間違った認識を持っていることを書きました。
これを運転免許に置き換えます。
運転免許を取得した方であればわかっていただけるかと思いますが、ある程度教習所内での運転練習を終えた後、実際の路上に出ます。その際、教習所内での運転と、実際に外で運転をすることの恐怖感の違いや、難しさの違いを感じるはずです。私は、コーチとして長い下積みを積むこととはつまり、「かなりの長い間教習所内で運転を練習し、試験の数日前に初めて路上に出る」という状況と一致すると考えています。
プロ監督を目指す、もしくはプロ監督になるべき優秀な人材は、「監督としての経験」を多く積む必要があります。コーチと監督は別の仕事です。さらに言えば「クラブでの監督」と「代表監督」は似て非なるものですので、日本のようにこれからサッカーを発展させていていく必要がある国では、代表監督を育てるために、育成年代における日本代表監督に「若い人材」を起用するべきです。
少なくとも今回のハリルホジッチ監督解任の一連の騒動で、様々な問題が浮き彫りになりましたが、コーチとしての長い下積みが監督を育てるという間違った認識を正さなければ、黙っていて監督が育つことはありませんので、このまま歴史を重ねていくことになります。
ポイント⑧:監督 = 偉い人
ではなぜそういった間違った認識を日本人は持ってしまっているのか?という点ですが、私は「監督=偉い人」という捉え方から来ていると考えています。
私は「監督」という存在が、コーチやフィジコとは仕事内容が異なるだけであって、「偉い」という認識を持つべきではないと考えています。日本人は、年齢を尊重するという非常に良い文化を持っていますが、それは時に様々な悪い影響を及ぼします。日本の場合「偉い人=歳を重ねた人」という拭えない認識がありますので、その「偉い人がやる監督」は長い下積みを経ている必要があるのです。しかし、サッカーという競技スポーツにおいては、年齢を度外視した実力で、それぞれが評価をされなければ、今後の発展は望めません。
ポイント⑨:日本独自の方法をとることの重要性
フランスの選手養成機関をコピーしてJFAアカデミーを創立したと私は認識しておりますが、エリートを育てるという観点では全く機能していないのが現状です。同様に、私たち日本人は日本の環境に適した「監督養成」をするべきであって、「ドイツがこの方法でやっているから」や「世界はどこもこのような方法をとっていないから」という基準で決定してしまうと、何に関してもうまくいきません。
例えばアルゼンチンのように19:00〜の授業開始だと、日本人の働き方からして難しいかもしれませんし、現状「指導者を育てられる指導者」は日本には多く存在していないので、いくつもの養成所を作ることは日本に適していないかもしれません。日本人が海外から学んだ上で、自分たちで日本独自の方法をとることが重要なのではないでしょうか。
ポイント⑩:変革は不可能ではない
ナーゲルスマンが誕生した裏には、ブンデスリーガの監督になるためのライセンスを27歳で取得できたから、という当たり前であり非常に重要な事実があります。もしもドイツで監督養成の改革が進められていなければ、いくらナーゲルスマンという才能がいたとしても、その才能が開花することはなかったかもしれません。
そのためには、問題定義や批判だけではなく、実際にアクションを起こし続ける必要があります。日本サッカーはこれまで「変革のタイミング」を何十回と逃しています。今回のハリルホジッチ監督の解任騒動も、このままブームが終われば無かったことになります。しかし変革は不可能ではないということ。そして、現代では若い人間でも世界を変えることはできるということ。それを私は自分の人生を持って証明していきたいと思っています。
何も、日本の法律を変えようとしているわけではないのですから。
筆者:河内一馬
1992年生まれ(25歳)サッカー監督。アルゼンチン在住。アルゼンチン指導者協会名誉会長が校長を務める監督養成学校「Escuela Osvaldo Zubeldía」に在籍中。