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「正しい」と「結果」の関係性——。サッカーに期待できる本来の「教育的効果」とは

日本では、多くの人間がスポーツに殺され、スポーツが教育(らしきもの)に利用されることで、ある種間違った洗脳をされている人々がいることを、私たちは決して否定することが出来ない。ここに並べるまでもなく、日本のスポーツ界では、度々信じられないような問題や事件が発生する。異常な練習量は日常茶飯事であり、指導者(大人)による競技者(子供)への暴力や、社会事情や政治的理由によって競技者が犠牲になること、またそれらを引き起こすのが必然とも取れる構造的問題は、枚挙に遑がない。

私たちはなぜ、スポーツをすることで不幸になるのだろうか——。


▼前回の記事(Vol.5)


■スポーツをすることによる「教育」

日本の部活動はもとより、外国においても、学校教育にスポーツを取り入れることで、社会的な生き物としての「人間教育」や、身体的運動能力の向上を含め、あらゆる意味での「教育的効果」が期待されている。サッカーというスポーツは、その最たる例である。

ただ、私自身の競技者としての経験(子供時代)も含め、日本サッカーの現状を考えてみると、私たち日本人はサッカーに対して「誤った教育的効果を期待している」のではないか?と疑いを持たざるを得ない。これまで『Competition and Struggle Theory(競争闘争理論)』に関連した記事内でも触れてきたように、どうやら日本人は、スポーツ競技を一括りにして考える癖があるようである。詰まるところそのような考え方が、あらゆる問題の諸悪の根源ではないかと私は仮説を立てている。それを証明しようとする取り組みが同理論である。

こと「スポーツにおける教育」という観点においては、スポーツの存在価値を左右する、非常に重要な議論対象であると言える。日本という国が、サッカー(スポーツ)を競技として向上するためにも、また文化として、その他あらゆる価値として存在し続けるためにも、この問題は早急に解決しなければならない。


■サッカーで「教育」をする

もちろん、スポーツを教育として捉えることによって発生する問題の原因を、ある1つの言葉をもって説明することは不可能であるし、そのつもりもない。数々の原因が複雑に絡み合っていることは火を見るよりも明らかである。

今回は特に「サッカー」という競技において(日本サッカー界において)そのような問題が継続的に発生しているのはなぜなのか?という視点から、それを説明する手段として『Competition and Struggle Theory(競争闘争理論)』を用いること、そして、サッカーを競技として捉えた際に「なぜサッカー(団体闘争:TS)では世界に勝つことが出来ないのか?」を証明する一つの要因として展開していくことを、改めてここで留意していただきたい。

※日本が唯一『団体闘争(TS)』に分類される競技“のみ”世界のトップを争えていないことは前述している通りである

それは私が「スポーツを『教育』として捉えるためには、各競技における性質を理解し、それによって期待できる教育的効果を把握することで、それに沿った教育を実行することができ、その結果、競技力向上のみでなく、多様な意味で『学び』を得ることに繋がる」と考えているからに他ならない。日本で生まれたスポーツをすることによる教育的効果と、西洋で生まれたスポーツをすることによる教育的効果が異なることは、文化的背景を考慮すればある種当たり前であるが、日本はそれを一括りにしてしまってはいないだろうか?


■求められる精神的状態

冒頭に書いたように、私はこの記事をもって「日本人は誤った教育的効果をサッカーに期待している」と主張する。国語を勉強しても、計算が出来るようにはならないのだ。

前回の記事で『競争(C)』において求められる「適切な精神的状態」と、『闘争(S)』において求められる「適切な精神的状態」は異なるものであると主張し、日本人はサッカーにおいても「競争的集中(内的集中)」を心得てしまっているのではないか?と、その理由と合わせて書いた。またその周辺における「集中」の定義や、必要となる言葉の定義を明確にし、その最も大きな要因(適切な精神的状態が相違する要因)となっている『競争(C)』と『闘争(S)』間の違いは以下であるとした。

競争(C):正しいことをすれば的に当たる(正しいことをすれば結果が出る)
闘争(S):的に当たれば正しいことになる(結果が出ればそれが正しいこと)

なぜそのように言えるのかは前回の記事を参照していただくとして、前者のような思考態度を「日本人的な考え方」である、と言うことも出来る。サッカーのように「西洋でルールが定められ西洋で発展するサッカーというスポーツ」を、我々日本人が誤って解釈をしていたとしても、なんら不思議なことではない。


■「正しい」と「結果」の関係性

基本的に日本人は、分野を問わず「正しいことをすれば結果が出る」と考えているのではないだろうか?「正しい行い→結果」という順序が、日本社会、そして武道やスポーツの垣根を超えて持っている基本的な思考態度であると私は考えている。一方で、サッカーのような「正しい」を事前に把握することができないスポーツ競技や、その他あらゆる場面において、このような考え方を持つことは本来不可能である。そのため「結果→正しい行い」(結果が出ればそれが正しいこと)という、日本人の思考態度とは逆の順序で考えなければならないことは、ある種自然である。

日本人は「『結果が出たのだからそれが正しいのだ』と考えること」を圧倒的に苦手としているのではないだろか?であれば、私はこの「日本人が苦手とする思考態度を身につけること」こそ、サッカーというスポーツに日本人が期待できる本来の「教育的効果」ではないか、と確信している。人生においては「日本人的な考え方」そして「サッカー的な考え方」の、両方を使い分ける必要があるからである。


■論点まとめ

ここまでの論点を以下にまとめる。

【1】スポーツを教育として考えるためには、各競技における特質から、どのような教育的効果が期待できるのかを把握しなければならない
【2】日本はサッカーに他競技(他分野)と同じ教育的効果を期待している(=サッカーにも日本人的な考え方を押し付けている)ために問題が発生しているのではないか
【3】日本人は「正しいことをすれば結果が出るはずだ」と考えるが、本来サッカーにおいては「結果が出ればそれは正しいはずだ」と考える必要がある
【4】人生には「日本人的な考え方(正しい行い→結果)」と「サッカー的な考え方(結果→正しい行い)」の両方の思考態度を持つ必要がある
【5】「結果が出ればそれが正しい」という順序で考える力を身につけることこそが、日本人がサッカーをすることによって期待できる教育的効果ではないか

ここからは、なぜサッカーを「結果→正しい行い」と考える必要があるのか、またサッカーをするにあたって(教えるにあたって)「正しい行いをすれば結果が出る」と考えてしまうことがどのような問題に波及していくのか、掘り下げて考えていきたい。


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