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『監督を辞めて、それから?』 複雑な様相を見せる脳内地図と、仕事的行為

アイルランドのバーで黒ビール片手にチャンピオンズリーグを観ながら「サッカー監督になる」と決意したのは、サッカー監督になりたいのかもしれないと思ってからだいたい3年後のことで、オレは本当に監督になりたいんか?を確かめるためにヨーロッパに来てからだいたい3ヶ月後のことで、寝ている間に荷物を全部パクられてからだいたい3時間後のことでした。

情緒はたしか不安定だったと思います。

この仕事を始めてからちょうど10年のタイミングで、一度「監督」という役割に区切りをつけることにしました。

Photo by Kazuki Okamoto

知らんがな、と思う方もいると思いますので小さな声で進めていきたいんですが、アルゼンチンで活動を始めたあたりからSNSではたまに炎上するくらいには健康的に発信を続けてきていて(6年!)、私のことを応援してくれている方や気にしてくれている人も少なからずいらっしゃることも知っているし、それにもうしばらくは監督というものをやるのかなと思っていたからそれ前提に色々と叫んできたので、この決断をするに至った経緯や、またこれからのことを文章に纏めておく責任と意義があるのではないかと、せっかくなら何から何まで書きたいと思っています。

少し、長くなるかもしれません。


1.監督ができませんと言われたら

Photo by Kazuki Okamoto

現在31歳になった私は、30代くらいは全部使って「サッカー監督」という職種を全うしようと思っていました。40歳の自分が職業人としてそれだけを追求するような生き方ができるとは到底思えなかったので、30代でいけるところまでいってみよう、という心意気でした。

でしたので、まず始めに日本の指導者ライセンスの現行制度に異議を唱える必要がありました。スタートラインはそこです。

ライセンスを取ってからが監督としての勝負なのだとしたら、プロサッカー選手経験なし(=無名)かつ30代前半で勝負しようと思っていた自分にとっては、今の制度では土俵にすら立たせてもらえないことは火を見るよりも明らかだったからです。順番待ちと人脈作りに人生を費やすことは私には到底できませんでした。性格は比較的ひん曲がっていると思います。

正面からお伺い立てても難しいことはわかっていましたので、私はアルゼンチンで国際ライセンスを取得し、日本で監督としてJFLを制覇する(J3へ昇格する)ことで、S級ライセンスが必要な段階になった"瞬間"に騒ぎを起こすという、少々アクロバティックな方法を取ろうとしました。

できるだけ早く。1年でも早く。

その際には所属クラブからの援護や、世論を起こせるくらいの「名前」があることが戦略的に必要不可欠だったので、アルゼンチンにいる時からSNSを計画的に利用していました。そのための要素が「アルゼンチン」というセルフブランディングでもありました。

Photo by Kazuki Okamoto

もし日本よりもサッカーが進んでいる国で取得した国際ライセンスを持っていて、かつ日本でしかるべき結果を出すことができる実力と知識を示し、所属クラブからの援護があり、様々な条件が揃ったところで「あなたは監督ができません」と言われたら「そうですか、では辞めます」と言い放って監督業を引退し、次のステップへ進もうと思っていました。ROCKです。


2.相反する選択

このアクロバティックな戦略にご支援をしていただいていた方々もいて、その方々には監督業に区切りをつけるというこの度の決断に際して、謝りたい気持ちがあります。

しかし今でも変わらずこの方法が、若者がライセンス制度に異議を唱える唯一の効果的な戦略だったと思っていますし、というか、指導者がより効率的に育ち、かつプロフェッショナルの世界で「監督」というタレントが生まれる日本独自の仕組み(ライセンスの構造・制度)が他にあると思っているので、これからも批判的なスタンスは貫きます。

世界中で活躍している監督が多いアルゼンチンという国でサッカーを学んでみて、その思いは確信に変わりました。

アルゼンチンにて(講義の様子)

計画通り3年で最上位ライセンス(CONMEBOL PRO)を取得し、日本で監督業を始めたのが3年前。所属クラブと一緒にカテゴリーを上げていくか、個人として移籍をしていきながら戦っていくか、どちらかの選択肢を取るつもりでした。監督として代理人契約をしていただけるにまで至ったので、順調だったと思います。

アルゼンチンにて(ライセンス授与式の様子)

ではなぜ、まだカテゴリーが低く(当時)設立3年目の「鎌倉インターナショナルFC」というクラブに、帰国後入団することを決めたのか。「1年でも早く」という意思とは相反する選択のように思います。


3.突如現れた問い

アルゼンチンがW杯を制した瞬間の街の様子や人々の狂いっぷりを見た人も多いかと思いますが、彼らにとってサッカーとは、ただのいちスポーツからは程遠いところにある、何か得体の知れない、一人の人生よりも長く、深いものでした。

Photo by me

と世間でも言われていますので私もそれを承知の上で行ったわけですが、いざ住んでみると想像をはるかに越える光景が広がっていました。

日本に帰って、仮に若いうちにサッカー監督として(運よく)成功できたとしても、社会にとっては何の意味もないのではないか?

そのように自分に問い始めるまで、さほど時間はかからなかったと思います。アルゼンチンにおける「フットボール」というものの存在感。社会そのものと言っていいほどの影響力。

それを体感して、私も自分の仕事で何か「社会」に大きな影響を与えたいと思うようになりました。そうでなければ、サッカーを仕事にする意味はないのではないか。日本にだって、まだまだサッカーやスポーツが触れられていない可能性があるのではないかと。


4.同時にコントロールする

Photo by Kazuki Okamoto

鎌倉インターナショナルFCという新しいクラブを選んだのは、その突如突きつけられた問いが理由でした。

クラブや「鎌倉」が持つ長期的な可能性を鑑みると、私が「監督」という役割と、世間一般でいう「ブランディング」という仕事を"同時に"担いコントロールすることができれば、これまで誰も成し得なかった大きなことが(仕組みの妙によって)出来うるのではないか?このクラブであれば自分がピッチ上で構築する「サッカー(ゲーム)」を「社会」と繋げることができるのではないか、という光です。これはアルゼンチンで3年間を過ごした自分が、心の底から望んでいることでした。

Photo by Jesse Kojima
Photo by Rintaro Harada
Photo by Kazuki Okamoto
Photo by Shunsuke Ishigaki


5.到底無視できない変化

アルゼンチンに行ってからの3年間、帰国してからの3年間で、様々な変化が起きました。25歳からの6年間はあらゆることが目まぐるしく動き、外部の環境はもちろんですが、内側から湧き出てくる感情や、これまでの人生で培ってきた価値観の変化は、到底無視できるようなものではなくなっていきます。

Photo by Kazuki Okamoto

「監督業に一度区切りをつけるべきなのかもしれない」と考えることが多くなったのは、やはりサッカー監督という仕事と向き合えば向き合うほど「それ以外」のことを同時に情熱的にこなすことはほとんど不可能に等しいということを、無視できなくなったからです。

監督業が他の仕事を、他の仕事が監督業を侵食し始めます。ただでさえサッカー監督という仕事は他の何かを行うにはあまりにもタフで、精神的にも物理的にも「いまここ」に縛られる職業です。ここまでは行けたけど、ここから先は難しいのではないか。

Photo by Kazuki Okamoto

未来にまた監督という仕事をすることになったとしても、サッカーをゆっくり考えることや、自分の現場以外のサッカーを見る・学ぶことが出来ていなかった今の状況下の中、成長が止まってしまっているように思っていたのもまた事実でした。

アルゼンチンに行く前に仕事に対して持っていた「若いうちになんかしでかそう」というマインドと、今自分がやっていることが矛盾していて段々とご飯が喉を通らなくなっていきます。社会に何か大きな影響を与えるのなんて、1年や2年では無理だとわかっているからです。


6.トッド・フィールド監督

次第に、「サッカー監督」で私と同じ(あるいは上回る)クオリティを出せる人や成果を出す人はいるだろうけど「私には私にしか出来ない、まだこの世にない仕事がどう考えてもある」と考えるようになりました。5年に1回くらいのペースで来る、えらいポジティブモード発動です。すごいです。

完全に決断をしたのは映画『TAR』を観た時でした。2023年で一番印象に残っている映画ですが、監督のトッド・フィールドが前作『Little Children』を撮ってから16年もの間、一度も映画監督をしていないということを聞いて、なんだか、決断できました。

私にとって監督を辞めるということは可能性を残しながら広げることであり、次のステップへ進むことであるのだと腑に落ちたのです。

全然興味ないと思いますけどトッド・フィールドには感謝してもしきれません。


7.興味の地図

私は上記したようなことの他にも、サッカーを軸にしながら様々なことを同時並行で行ってきました。職業はなんですかと聞かれた時に使えていた「サッカー監督」という、とりあえずこれ言っとけばOK肩書きがなくなってしまうので、私は自分がしていることを定義し始めました。お前は一体、何がしたくて、何をしていて、何を成し遂げようとしているのでしょう。

興味の地図

上図が自分の興味や行為の地図です。サッカーを外から観るようになってから、あらゆるところに興味と行為が広がっていきました。

私が少し他者と違ったのは、サッカーというものに広義の「コーチ」という角度で興味を持ったとき、戦術やフィジカルに関する知識、あるいは組織マネジメントやトレーニングに関する知的好奇心を越えて、世界・海外に興味を持ち、実際に足を運んだり書籍を読んだりしていく中で、人間という生き物や、それが作り出す文化や社会に興味が移行した点にあると思います。

そこから1つ目の着地点として「競争闘争理論 」という理論体系が生まれ、以来それを軸に私はサッカーやスポーツの価値観を形成していくようになります。同理論は『競争闘争理論 サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか』という書籍として、2022年世に放たれました。

サッカー本大賞2023「大賞」受賞時

さらにはそこから興味が交差して「強いということはかっこいいということで、強そうに"見える"ということで、それは一体どうやったらつくれるのだろうか」という順序でブランディングやクリエイティブ、デザイン領域に関心を持つようになります。根は同じところから、外へ外へと興味関心が広がっていったのです。

この地図には実際に仕事として行ってきたこと、単純に興味があること、あるいはこの先行っていくことが予想されること、など様々なステータスのものが入り乱れていますが、私という人間の「仕事的行為」に関する自己紹介はこれを見せれば今の所一発だと思います。


8.私の仕事的行為

整理をすると、私はスポーツにおける「実践」と「理論」と「伝達」の3領域をあらゆる方法で行ってきたのであり、サッカー監督という仕事はその一つの手段でした。

既存の職業名で自分の仕事を説明するのが難しいと思っている理由は、このようにサッカークラブでCompetitorとして競技をプレーし勝ち負けに一喜一憂しながら、Academician(この呼び方はちょっと大袈裟ですが)として理論の構築や体系化や構造化、執筆を行い、加えてStorytellerとしてブランディングやクリエイティブディレクションなどの事柄を同時並行で行っていたからでした。

Photo by NIKE Japan @NIKE App

私にとって3領域が同時に成り立っている状態こそが正常なのであり、最も理にかなっています。それをどこかに絞るとか、何かに集中するとか、既存の職業名を当てがうとか、決してそういうことではないのだと気が付きました。3領域が一緒でなければ成り立たないのです。

私の仕事的行為が既存の職業名で説明ができないとするならば、自分の城を造るよりほかありません。

そこで私は、2024年【vennn inc.】(株式会社 ヴェン)という会社を仲間と一緒に設立し、組織をつくっていくことに致しました。


9.組織のコンセプト

詳しい説明は別の機会にするとして、ここでは大体のコンセプトを書いていければと思います(一緒に仕事をしてもいいという人が出てきたりなんなりすると嬉しいなという気持ちをひた隠しにしながら書き進めていきます)。

まず私がつくりたい組織は、スポーツを以下のように「物質の三態(Three states of matter)」に準えて捉えます。

「物質の三態」と「スポーツの三態」

H2Oが周囲の温度や圧力によって固体や液体や気体に姿を変えるのと同じように、スポーツは実践者/媒体/第三者の有無や量によって「実践」や「理論」や「伝達」に姿を変えます。

これまでは個人でこのように考えて呼吸をしてきましたが、同じような解釈でスポーツを捉えている「組織」を形成することによって、より大きな規模で事が成しえるのではないかという仮説です。

「スポーツの三態」とそれを担う組織形態

上図のように「スポーツの三態」を取り出すと、私が今まで仕事でアプローチしていた対象は

  1. 実践者:プレイヤー(選手やコーチやクラブなど)

  2. 媒体:メディアや本など

  3. 第三者:オーディエンス ≒ 観客

だった、ということが整理できます。

それならば、実践を担う<クラブ>と、理論を担う<シンクタンク>と、伝達を担う<クリエイティブスタジオ>という「3つの機能を持ったひとつの組織(= vennn inc.)」をつくることで、新しいAbilityやOpportunityが生まれる可能性があるのではないか。

組織コンセプト

実践/理論/伝達と姿を変える「スポーツの三態」という捉え方こそが、つまるところ「スポーツの総合力」を説明する術であり、その見方をすると日本はまだまだスポーツにおいて「ポテンシャルがある」と言うことができます。それぞれの領域がバラバラに行われていたり、伝達(ストーリーテリング)領域のクオリティが異様に低かったりするからです。

3領域(もしくはそのうちの2領域)を跨ぐ人材が集まる組織を形成すること、そのような人材を育てていくこと、そして3領域の専門性を組み合わせ、超越し、往来しながら価値を創造していくこと。

それがやりたいことです。


10.それぞれの専門性とスキルセット

実践(P)理論(T)伝達(S)

それぞれの領域で行っていく事業のコンセプトを文章にすると上図のようになります。それに現在私が持っている、あるいは組織が持っていく各領域における専門性やスキルセットを合わせると以下のようなものになります。

専門性とスキルセット

これらの専門性やスキルセットは組織の未来から考えるとごく一部ですが、スキルは各領域にのみ独立して用いられるのではなく、それぞれの領域を越えて力を発揮します。例えばブランディングのスキルはサッカーのコーチング(実践領域)にも強みをもたらしますし、言語化や構造化はもちろん伝達領域にも大いに用いられます。

そしてこの専門性やスキルセットは当然私ひとりが担うものではなく、人材が集まれば集まるほど多様で多角的な集団になっていきます。このような集団が「スポーツの総合力」に戦いを挑むことで、スポーツにおいて独自の組成が生まれ、これまでにはなかったような視点やアプローチが生まれるはずです。これが組織をつくる理由です。

日本のスポーツ業界には、まだまだポテンシャルがある。やっていないことがたくさんあるのだというスタンスをとりながら、スポーツの総合力を高めることに挑みたいと思います。

サッカーというゲームのみならず他スポーツ競技と携わることも含めて、今まで以上に様々なことに挑戦していく所存です。個人として、組織として。


11.情緒的な何か

Photo by Taiga Inami

子供だった私にも少しずつ社会的な立場が生まれて人に迷惑をかけることが難しくなると、誰かから示される尺度で出来る出来ないを判断するようになって、次第に、勝つことが濃厚な勝負しか挑まなくなっていきました。

うまくいくだろうと予想がつくようなことを「経験」と呼んで、生産し続けることで「生活」というものを保ち始めて、人に理解してもらえないことは金にならないからと、自分の意思と直感を曲げることが増えていきます。

勝つか負けるかわからないこととか、うまくいくかどうかわからないこととか、人に理解してもらえるかどうかわからないこととか、そういうことにしか燃えないタイプだったじゃんかよと21歳の自分が31歳の自分を笑います。

"社会"のことを何にもわかっていなくて、経験も実績もなくて、それでも何かに○指を立てている若者を見ると、自分だってまだまだ若造のくせにと後頭部をぶん殴られる。

まだまだ。

自分勝手かつ意味不明なことばかり言っている私に迷惑を被っている方もいるかもしれません。その方々には申し訳ない気持ちでいっぱいです。こんな人間でも支えてくださる方々には、心から感謝しています。これからもどうか助けてください。

鎌倉インテルでは変わらず、ブランディングのディレクションをしていきながら、今季からはテクニカル・ダイレクターとしてサッカー部門全体の統括をしていきます。私はこのクラブでJリーグに参入し、鎌倉に美しいスタジアムをつくることが夢であり目標です。その時に圧倒的なチーム力とブランド力を携えているように、長い目で全力を尽くしていきたいと思います。鎌倉インテルを応援してくださる皆様、これからもぜひ応援よろしくお願いします。


最後に

昨年12月、お世話になった方が突然若くしてお亡くなりになられたと知らされました。帰国したら会いにいくと言いながらも行けずにいて、気がついたらもう二度と会えなくなってしまいました。残されたご家族のことを思うと今でも胸が締め付けられるような想いです。どうか幸せに助け合いながら生きていってほしいと、私には涙を流しながら祈ることしかできませんでした。それから1月1日地震が起き、数日間は自分の新しい人生のことを考えることが出来ない日々が続きました。この度被災された方々や飛行機の事故でお亡くなりになられた方々には心よりお悔やみ申し上げます。私には寄付をすることくらいしか出来ませんが、少しでも早く平穏な毎日を取り戻せることを祈っています。

自分の命だって、いつなくなるのかわかりません。死への感覚が少しずつ少しずつ自分にも押し寄せてきているような気がしていましたが、年末年始の一連の出来事でより一層強みを増したように思います。どうせ生きることを選ぶなら、一生懸命、誇らしく生きていきたいです。

至らないところばかりの私ですが、今後とも何卒よろしくお願いいたします。

2024年1月某日
河内一馬


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