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書かれた「夢の話」は、夢とはちがう


つねづね思っていることだが、夢の分析でしばしば出てくる「物語の構造」というやつは、夢そのものの構造をあらわしているのではない、というのが、私のいつわらざる実感だ。

なぜそういう実感をもつかというと、「見た」記憶がある夢のなかの場面や映像、出来事やそれがもっていた意味などを「言語化」するときに、どのくらい大幅に夢そのものの中身が歪められてしまうか、という、その差異、差分の程度について、私は、気付くことができるからだ。

これに気づける、というのは、通常の言語使用者のふつうの能力ではない、ということを、私は最近まで知らなかった(つまり自分が特殊であるということに気づいていなかった)。

「言語なしには思考はできない」と言う人がいるが、それは一部分正しく、一部分まちがっている。「思考」にどこからどこまでを含めて考えるかの、定義次第で変わる。

いわゆる論理的思考、概念化したカテゴリーをもちいるスキーマ的な思考だけを「思考」と呼ぶのなら、思考そのものが本質的に言語的である(定義からしてそうなっている)のだから、言語から独立して「そういう思考」は、できない。当然だ。
言語と切り離せないカテゴリー化、概念の摘み取りを前提として、「思考」を定義しているのだから。言語ありきになるのはあたりまえ。

一方、もっとナマの知覚記憶や感覚的な記憶、霊感などの記憶は、記憶としては残っていることがあり、言語化できない余剰部分をもっていることがある。その余剰部分にあるものを「思考」に含めて考えるかどうかが問題で、上記のような「論理的・概念的思考だけが思考である」と定義している人からみたら、霊感のような感覚は「思考以前」であり、思考には含まれない、もしくは思考に含めるに値しない、ということになるのだろう。

そうなると、言語化できないが知覚している経験(現象としては起きている主観)は、思考以外の何かだ、ということになる。

さて。夢の話にもどると、学問的あるいは精神分析的な「思考」の対象にまで落とされた「夢の内容」とはいったいどういうものなのか、という疑問が出てくる。

そもそも他者にわかるように言葉で説明した時点で、もう、「言語化できない主観的経験」の部分は排除されている。「夢を言葉にして他者に語る」という行為は、言ってしまえば「夢そのものの主観的経験を破壊する」行為なのだ。

私はこれを、実感をもって断言できる。
なぜなら、言語化できない主観的経験を「見つめる」訓練をかなり深く、おこなってきた過去があり(現代詩を書く詩人として芸術的な言語表現の訓練をしてきた)、「言語化できていない余剰部分」を、言語なしに認識する力を、未完成ながらつけてしまっているからだ。

今、こう書いているのは、こう書かないと伝わらない、ということが判明したためだ。
そもそも私は、自分にできるようなことは誰にでもできるのだろうと思っていた。
ところが、私の言語能力は相当に特殊なのだ、というのが、最近いろいろな人と話すなかで判明した。判明しそうになっていたうちはまだ、「え、ウソだろ。誰でもそうなんじゃないの、言語なんだから」と思っていたが、どうやらこれは確定のようなのだ。

自分の特殊性という、下手をしたら『中二病』じゃないのかと思ってしまうような発想は、極力排除したい。
世界中の人類で自分だけが───などというのは、もちろんバカバカしくて笑ってしまうような勘違いだが、そこまでいかずとも、周囲の「普通の人たち」の大半(それを定義するのはとてもむずかしいことはわかっているが)が、自分のもつ何かを、持っていないらしい……と気づいたとき、それを自分でどう評価するかで、迷う。

いずれにしても、私の言語使用状況は、普通ではないらしいのだ。
私が言語をもちいて日常ふつうにやっていることは、他の日本語話者のほとんどは、「やっていない」らしい。
───知らなかった……!

でも、もう知ってしまったことだ。
私はたしかに、「言語化できない余剰部分」を、言語化しないままで記憶したり味わい直したりして「見失わないようにする」訓練を、自分に課してきた。それはたしかに、たやすいことではなかった。それはなるほど大変な苦労であった……

そういう訓練も苦労も、ふつうはしないのだ、というのなら、なるほどそういうことかもしれないな、と。

私がふつうにやっている言語活動のかなりの(あるいは一部の特殊な)部分が、通常の日本語話者のやっていない活動なのだとしたら────

その前提で考えてみると、「夢の物語構造」というのは、ふつうの言語使用者が、夢という「言語化がむずかしい主観的経験」を言語化するときにかかってしまうフィルターの性質・構造特徴にすぎず、夢そのものの構造なのではない、という推測がでてくる。

つまり、
小麦粉を牛乳で練ったものを、クッキーの型で抜いたとき、それが動物の形をしているからといって、「小麦粉を牛乳で練ったら動物の形になる」と結論づけてはいけないように────
フィルターがかかった結果が「物語構造」になるからといって、夢そのものがそういう物語構造をもっている、と結論づけることはできないはずだ。

私が言いたいのはそういうこと。
言語化できないナマの夢を記憶して、それを他者に見えるようにする方法(念写のような?)が、ない以上、型でぬいたのと同等に変形をほどこされた「言語」によるテクストでしか、夢は他者には伝えられない代物なのだ。

だから────

夢というのはこういう構造をもつものだ、こういう制約をもつものだ、等々、うかつに結論づけては駄目だ、と私は確信する。








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