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赤ちゃん連れの路上のおじさんにからまれる


またまた長編の夢だったが最後のほうしか覚えてない。

そしてまたまた、ヴィジュアルな映像のいくつかを写真のショットのように映像として記憶していて(言語化以前)、それを言葉にするのは面倒くさい。

言葉にするやり方は、いくつもある。
どんな場所で、どんな状況で、どんな登場人物がいて、自分は何をしていて、時系列的に何が起きて、どうなって、結局こうなった、みたいなストーリー型にして提示することももちろんできる。それがいちばん「どんな夢を見たか」を他人に伝える方法としては、社会性のある(他人に対して思いやりのある)コミュニケーション姿勢だろう。

だが、そうでない言語化の方法もあるのだ。
写真のように覚えている映像のなかの、「今ここで気になった部分」を先に、日本語の文法など気にせずに言語化するとか。
それをやったら、読者には何のことやら「理解できない」ということになるだろう。
だったらそれは、「夢を言語化した」ことにならないのだろうか。
そんなことはない。言語にするのが言語化なのだから。
言語にした結果、他人が読んでわからなかったとして、それは「言語化であるかどうか」の判定基準になるのか?

言語化とは何なのか。
マジョリティーの日本語使用者の平均的な読解力で「わかる」ように、こちらで整理して文章化する、というのが「夢の言語化」だと、あらかじめ決まっているわけでもあるまい。

私としては、たぶん、絵にでも描いてしまったほうが早い気がするのだが…(絵が上手く描けるとしてだが)

言葉にすることでこぼれ落ちてしまう何かは、絵で描けば容易に補完できる場合がある。絵が上手く描けなくて言葉のほうが容易に表せる部分ももちろんある。
じゃあ両方やるか。
両方とも面倒くさい。(あ〜あ…)


さて。しょうがないから、適当に言葉にする。

道路だ。アスファルトというよりはコンクリートと言ったほうがいいような、埃っぽい、白っぽい道路だ。
車はとりあえず、走っていないようだった。
コンクリートか石造りの白っぽい建物が並んでいる。2階建てぐらいの店舗っぽいもの。イメージ的にはインドネシアに住んでいたときに見たような街並みだ(…と書いて伝わるかどうかは、この際気にしない。私はわかっている)。

その、歩道ともいえないような、店舗と道路の接合部分の狭い場所に、中年の痩せたおじさんが座り込んでいる。白っぽいランニングと下着っぽい姿。ボロ布でくるんだ赤ん坊みたいなものを、脚の上に抱いている。

私には女性の連れがいた。誰だったっけ。
ふたりで話しながら歩いていたのだが、そのおじさんと私の目が合った。
目が合ってはまずい、と知っていた気がする。

別に何を言うつもりもなかったのに、私が何か言ったと、おじさんは勘違いしたようだ。突然目つきが険悪になる。

まずい、と思った。このおじさんは、暴力団系かもしれない。赤ちゃんを抱いているからといって、優しいわけではない。

通り過ぎて少し行ったとき、おじさんが追ってくるのがわかった。(追ってくる姿は見えていない)

連れと私は、いつのまにか自転車に乗って逃げている。
おじさんは私達よりスピードが早い。自転車か、車に乗っているようだ。どんどん迫ってくる。

目前に丁字路。そこを左に曲がって、すぐにまた路地に入れば、おじさんからは見えなくなる。
それを、連れに合図した。
ふたりで丁字路を左に曲がる。
ブロック塀が続いている。
すぐに路地へ! と思ったときにはもう、私は車を運転していた。
(徒歩から自転車へ、そして自動車へ、という移動手段の変化は意図的ではなく、いつのまにかだった)

一度だけ振り返る。道の両側は白い塀。遠くは見えない。
黄色っぽい光。夏のような、夕方のような、陽の色。

おじさんはまだ丁字路を曲がっていない。
しめた! 逃げられる。
車のまま、狭い路地に入り込む。そこでまた徒歩になった。

大丈夫、ちゃんとまいた。
連れとそう確認し、路地を進んでゆく。

【補足】
この場面の前に、連れと私はなにかしていたのだが…
忘れた。
言語化すると、他の場面を忘れやすくなる。だからイヤなんだ。言語化=夢の破壊。

それに、言語化すると、やはり結局は物語的に書いてしまう。でも、実際の夢はこうじゃなかった。もっとごちゃっと場面と場面が重なっていたり、行ったり来たり場面が前後したりしていたんだけど、それは言葉では説明しづらい。
空間的にテレポートしてるんじゃないか、あるいは視点だけが瞬間移動してるんじゃないか、と思えるような「場面A、場面B、また場面A、場面B→C、…」みたいな瞬時の場面交錯+時系列破壊も、見た夢のなかでは起きていた。でもそれを言語化するのはむずかしいから、順番に起きていたかのように書いてしまう。

表現力の問題だけどな。よほど文芸的表現力がある人なら、書けるのかもな。あと、そのためにわざわざ時間を割ける、暇な人なら。

私は目が疲れたからこれでやめる。
やめたからといって、見たのがこれだけだというわけではないが。










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