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【小説】 幻想について


 
 以前友だちだったアコは、いつのまにか結婚して、子どももいた。三人の親子の住む汚いアパートに訪ねて行った日、私は頭痛がしていた。狭い入口をはいると、下駄箱のわきに洗濯物が積まれていて、部屋はひどくちらかっていた。雨が降っていたせいかもしれない。何もかも、目眩の原因だった。彼女と同じ教室ですごした記憶も、突然学校をやめた彼女が何も理由を語らなかったことも、その後の消息不明も、そしてロビンという男の写真と、人見知りしない幼いユークンも。

 その目眩が液体のように頭の中に広がっていくのを感じて以来、ずっと消えないものがある。

 幻想ということ。

 それは、あるように見えるけれどないもの、手を伸ばしてみるとつかめない、だけれど常に目の前を離れないもの、そんな何かだ。しかもそれは生き物のように成長し、まわりにあるものを食いつぶしてゆく。私もいつか食われてしまうのだろうか……。

 
     *

 
 吉祥寺の小さなクラシック喫茶で。

 M君。もう何度も書いたけれど、あなたはまだどうしても、私の中の幻想なのです。いつか手紙のなかであなたが言っていたように、私はこんな短い間に自分の中にあなたの幻想を創り上げてしまった。この頃、それがわかりかけてきて、ところが、わかったと思うとまたモヤのなかに消えていってしまう。これに決着をつけなければ、私は行くべき所にたどりつけない気がする。

 行くべき所──そんなものがあるのだろうか。それもまた幻想なのではないだろうか。よくわからない。

 夜、あかりをつけたベッドの上にすわって、あなたのことを考える。淋しさ。これも幻想なのではないだろうか。あなたが私のものであったことなど一度もないのに、まるで自分の一部が無理やりはがされて奪われてしまったように、痛む。体ぜんぶが。そして、あなたもまた痛いのだろうと思う。これが幻想でなくて何だろう。

 だから私は考えてみる。幻想ならば、それは私の中だけの存在だ。実在ではない。他者ではないのだ。あなたは実在しない。そう割り切って生きてみたらどうだろう。

 ところが、次の日あなたからの手紙が届くと、そこには私の知らない他者がいる。私と同じように幻想に苦しみながら、時には夢を見て、でもそれは私の中から出たものでないことがおぼろげにもわかるので、私は納得する。あなたはやっぱりいたのですね。

 
     *
 

 私はいつのまにか、アコに影のようにくっついて生きている。

 結婚する前、何人の男とつきあったのだっけ。よくわからないけど、きっともう忘れていて、今、目に見えるのは、自分をとりまいている縄のようなもの。時に親の顔になったり、自分になったり、恋人になったり、聖書になったりする。それは、夢の中にも出て来て、私は苦しい息をして逃れようとする。いや、そうしているのはアコなのだ。

 アコの目は、悲しげだ。怒っているようでもあるけれど。
 そしてさかんに手を振り払っている。何かが手についているのだ。水のような、虫のようなもの。
 実は何もないのかもしれない。ただ、手がむずがゆいだけなのかもしれない。

 洗ってこよう。

 水道の所で両手を見ると、それらは白いはんぺんのようにふくれている。
 ──私のじゃない。

 振り払うと、ベチョッと音をたてて落ちた。水槽の穴に。そしてドロドロと溶けて流れていく。やれやれ、きれいになった。もう一度やり直しだ。私はどこにいたのだっけ。

 そう、教会の中。オルガンを聴いている。
 ロビンと、アコと、ユークンが、最前列にいる。これからユークンの幼児洗礼が始まるところ。
 牧師が立ち上がって前にすすむ。アコがユークンを抱いて、牧師の前に立ちはだかる。となりでロビンが笑っている。牧師が何か言った。あれは、聖書を読んでいるのだ。

 そして、牧師のはんぺんのような白い手が、ベチョベチョ濡れて、ユークンの頭の上に載ろうとした。

 イヤッ!

 誰かが叫んだ。あの声は誰だろう。ロビンが笑っている。教会堂のなかの人々は、ざわざわとさざめいて、泣いている。私も、泣いている。

 イヤッ! イヤッ! イヤッ!

 あちこちから声が漏れる。教会堂はその声でいっぱいになった。よく聴いてみると、それは剣道の掛け声と同じだった。

 イヤ──ッ!

 私は思わず走り出し、入口の石段を駆け下りた。そして思った。あの幼児洗礼は成功したんだろうか。途中で中止したんだろうか。でも、そんなことはどうでもいい。どっちだって同じことなのだ。これは存在しないのだから。

 外は雨が降っていた。私の前を、誰かが走って行く。急に立ち止まってひざまずき、上を向いた。額と頭に水が降り注ぐ。祈りのかたちに指を組み、目を閉じ、そして何か言った。かすかに聞き取れるほどの声で。

 ──私は天から洗礼を受けました。

 
     *
 

 今日、新宿駅でロビンに会った。私はMと一緒だった。ロビンは言った。
 ──アコと別れたんだよ。
 ──どうして。
 ──なんとなく、合わなくなっちゃったみたい。
 ──そんなことで。
 ──アコがそう言うんだ。
 ──ユークンはどうなったの。
 ──僕が育てることにした。でも今は親戚にあずけてある。
 ──アコは何も言わずにユークンを手放したの。
 ──アコの方から、要らない、あげる、って言ったんだよ。
 ──そんな……!

 私たちは数秒してそのまま逆方向に別れて歩いた。Mの手を握ったまま、私は黙っていた。

「そんな……」その言葉には、どんな意味があったのだろう。

 それから急に、私の中にモヤがたち始めた。
 これは幻想にちがいない。あの一瞬、私の口の中で、アコへの怒りと羨望と哀しみが、からまって消えた。黙っている私に向かって、幻想の中のアコが言った。私は私よ。これだけは変わらないの。

 でも、これは何の夢だったのか。アコは何から離れようとしているのだろう。

 また、あの、アコの白い、はんぺんのような手が、頭の中で揺れた。
 何を払いのけようとしているの、この手は。何度でも成長して白く膨れあがる。夕日みたいにね。
 そして私は水道へ走って行って、水を流し、ベチョッと落とす。するときれいになるのよ、一瞬。

 ──そのあとの手は、きれいですか。

 そう。これが私の手。だけど、また、ちょっぴり白くなってる。

 
     *
 

 M君。今私は、この喫茶店でカノンを聴いています。ラジオ番組の主題曲にもなった、パッヒェルベルの。あなたが地球のむこうがわの国から帰って来たら、一緒にここで聴きましょうね。
 あなたの抱いている幻想と、私の抱いている幻想と、同じようで違うけれど、それでいいと思う。幻想だとわかっていれば。

 外は雨です。さっき急に降り出して、窓にしずくがつき始めたので気がつきました。雨って、憂鬱なんでしょうか。さっきまでそう思っていたのだけど、もうわからなくなった。水が落ちるってことは、なぜ憂鬱なのでしょう。わかりますか。

 小さいころ、台風が来て、栗のイガがたくさん庭にころがって、雨戸を閉めるとそこに硬いものが音たててぶつかって、私は家族といっしょに部屋のなかでじっとしていました。奇妙に暖かかった。
 そして雨が上がると、庭中に赤とんぼが群れているのです。屋根にも、池のまわりの木にも、私にも。
 赤とんぼにうずまって、私は両手ひろげて駆け回りました。大声で叫び出したかった。

 ──何を?

 もう覚えていません。でも、そのときの言葉が、今も私の体のどこかにうずまっているような気がします。
 ときどき芽を出して、少しずつ大きくなり、白い実がなって、ボタッと落ちる。するとそこからまた増えてゆくのです。

 ほら、カノンが流れているでしょう。この店には、私とおなじ人たちがたくさんいます。みんな黙っているけれど、テーブルの上に置いた手はどれも白っぽくて、さっきよりほんの少し、膨れている。

 
     *
 

 私の幻想は、こうして昼間でも私の頭の中にしのびこんでくる。心臓にとりついてサクサクと食べているみだいだ。ときには、この幻想にすべてを任せるのが幸福なのかもしれないと思う。

 人の波の中を泳ぎながら、涙を流し、ささやく。

 ──みんな、手をさし出してください。ほら、こんなにきれいでしょう。こんなに白くてやわらかい。太古から漂っていた生物のように、これは、生きているのです。しあわせに、生きているのです──

 私は気が遠くなり、思わず引き込まれる。どこかで声がする。
 そこは、いつか通った所じゃないか。そこは暗かったじゃないか。そこは冷たかった。そこは……

 それから、耳鳴りが始まる。幼い頃の記憶が行きすぎる。色セロハンを通して見るように、いろんな色に染まって。

 ──ここはどこだろう。

 ほんとうに、どこなのでしょうね、あなたのいる場所は。行ったことも見たこともないところ。でもきっと、黄色い光があふれているのでしょうね。強い光線で緑色に輝く厚い葉の樹木が茂って、それらは、動物のように手や足を伸ばして攻撃してきたり、誘ったりするのでしょうね。
 あなたが見ている世界とは似ても似つかない、だけど確かに私の内側に像を結んでいるその国。
 そんなふうに、ひとりずつ、ちがう国を隠し持っている。生まれる前にはひとつだったそれが、もうだれも数えようとしないくらいに分裂してしまった。アメーバのように。そうして夢を見る。重なって同じ幻想をみる夢。

 ほらそこの、公園のベンチで鳩を見ている老人。
 M君、あなたなの?


(了)

(同人誌『文藝軌道』Vol.17, No.1(2020年5月号)に掲載したもの)


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