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#01 赦すということ

前回の投稿には多くの方からメッセージをいただき、とても嬉しい気持ちになりました

ありがとうございます

特に早速紹介した書籍を読んでいただいたTomoya.Oさんの記事は、とても勉強になりました

今回は、私が目指す「みんながお互いをわかりあう、少なくとも、お互いをわかりあうことをあきらめない社会の実現」について、

影響を受けた書籍を紹介しながら、もう少し掘り下げていこうと思います


企業倫理に対して感じる違和感

大学院の話ばかりになってしまいますが、

ビジネススクールでは、

輩出した経営者が不正を犯した過去の反省から、

企業倫理の講義を行うことがグローバルスタンダードになっているそうで、

私が通学している大学院でもそのような講義があります


それ自体は非常に大切なことであり、

その重要性を否定する意図はありませんが、

私は若干の違和感のようなものを感じています


企業倫理、経営者倫理とは、非常に乱暴に平たくまとめると、

企業の持続的成長に責任を負う経営者は、

同時に高度な倫理観を持たなければならず、

時としてそれらが相反する状況に直面した時、

経営者は倫理を当然に優先して判断しなければならない

ということだと理解しています


至極真っ当で当たり前のことのように聞こえますが、

私が違和感を感じるのは、

「経営者も1人の弱い人間である」という前提を捨象していないか

ということです


組織のリーダーである経営者が、

当然にして高度な倫理的責任を果たしている状況は、

人は生まれながらにして平等であるという前提からすると、

少しというか、かなり

周囲が経営者に対して大きなことを押し付けすぎているのではないか、

という違和感を持ってしまうのです


仮に、日頃は真摯に経営に向き合いながらも、

いっときの迷いから倫理的に誤った判断をしてしまったがゆえに、

責任を問われた経営者をひとりの人間として目の前に見たとき、

私はその人を断罪できるだろうか、と思うわけです


企業のトップとしては引責するなどのけじめはつけるべきなのでしょう

ただ、多くのことを引き受けてきたひとりの人間を目の前にして、

それ以上の断罪をすることが果たして良いことなのか、私にはわかりません

むしろ、多くのことを引き受けさせた組織や社会は、

その代償として受容するべきなのではないかとすら思ってしまいます


違和感に対する答え

宇田川先生の「他者と働くー「わかりあえなさ」から始める組織論」は、

こうした私の違和感に対するひとつの答えを示してくれます

経営者であった父親が銀行から株取引を唆され、

その結果、莫大な負債を追い、道半ばにして癌で亡くされ、

その処理に残された家族として苦労された過去から、

先生は、その銀行員らに深い憤りを覚えるとともに、

父親に対してすら激しい怒りを向けてしまったが、

次第にご自分の感情に違和感を感じるようになります

そして、果たして自分が、その銀行員だったら、父親だったら、

と立場を置き換えた時に自分はどうしただろうかと考えると、

彼らは悪い人間ではなかったはずであり、憎むべき相手は彼らではなく、

そうせしめた状況、組織の中で置かれた状況や取り巻く関係性だ

という結論にいたるのです

そして、「彼らを赦し受け入れる道を歩む決意をした」そうです


この「赦す」という言葉は、私にとって、ひとつの大きな手かがりです

わかりあえない人たちのことや

経営者に求められる企業倫理に感じる違和感も、

この言葉を実践することで、

乗り越えられる可能性が出てくるような気がします


私は、特定の宗教を信仰していませんが、

小中学校がキリスト教の学校だったこともあり、

聖書を読む機会がありました

その当時はよくわかっていませんでしたが、

新約聖書の中に次のような言葉があります

もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる
しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない(ルカ11 2-4)

今になって、この言葉に意味を見出すことができるようになってきました


「赦す」ことから見えてくる未来

そして、人と人との関係性の中で、

皆が「赦す」という実践ができるようになったとき、

「みんながお互いをわかりあう、少なくとも、お互いをわかりあうことをあきらめない社会」への扉が開かれるような気がしています


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