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「誰も信用しない」は自己成長へとつながるか

 かつて少年だった俺たちへ

 人は失敗や反省を他人のせいにしたとき成長は止まり、自分のせいにできたとき成長できる。この考えを飛躍させると、どんな物事の失敗でも自分のせいにできたら劇的に自分は前に進めるのではないか。そう考えて実行に移した少年がかつていた。今回はその少年の行動とできごとを振り返り、表題である『「誰も信用しない」は自己成長へとつながるか』を一度考えてみたい。

 ※今回、「誰も信用しない」は「警戒心をもって人と関わる」という文脈ではなく、「誰にも期待しない」という文脈で使っています。

 今の彼を知っている人にとっては少々意外なことかもしれないが、幼少期の彼はささいなことで怒り出す、火薬庫のような少年だった。人と喧嘩することは日常茶飯事。時には、呼び方が気に食わないから、怒り出すことさえあった。

そんなある日、彼は怒っていても物事が何も改善しないことに気がついた。ただ怒りの感情を爆発させても、問題が解決されることはない。合理的なのは、その場で問題の対処にあたることだ。そう気づいた彼は、そこを転機に“怒る”ことは滅多になくなった。

沸点を低くするために彼が行ったことはただ1つ。「人を信用しないこと」。人に過度な期待を寄せなければ、怒りの感情に囚われることはなくなるし、加えて落胆に足を止められることも無い。「何かを頼ってそれで失敗したのであれば、それを任せた自分の責任」という思考法は、彼の「生まれた時よりも成長していたい」という思いと合致し、人格が形成されていった。

心理学の社会的サポートの分野で、"ソーシャルコンボイ"という考え方がある。船団を組織して船が航海する時、コンボイ(護衛艦)がその周りを何重にもなって護衛する様子になぞらえて、個人のネットワークの構造を表すものだ。年月が経ち、思考法が着実に彼のものになっていった時、彼のソーシャルコンボイの図は以下のようになっていった。


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 第一円には誰も居ない。挙げるとすれば、それは彼自身で、彼は自分の過去と未来を考え、何かあれば自分自身と対話してことにあたってきた。過去の自分の行動を考え、ありたい姿から答えを導き出し、行動していった。自分自身で物事を決めたのだから、なにが起きても自分のせいにして、失敗をした後はそれを反省して行動を改善しいった。

 そんな中、彼は大学受験に失敗した。その話を聞いて友人や家族は彼を励まそうとしてくれていたけど、どんな言葉も彼には届かなかった。

 「運が悪かっただけだよ。」いや、運も実力のうちという言葉がある。自分は、運を引き込むことができなかった。

 「逆に良かったんじゃない?」逆に良い、とはいったいどういう意味なんだろう・・・。それは、"本当に"良いことなのか・・・?

 言葉がぐるぐる回る。気持ちは持ち上がらない。努力不足なのだと、親には椅子を投げられた。今、落ち込んでもなんの解決にもならないぞ、と自分の声が聞こえる。切り替えていこうと、皆が口々に言う。後期の日程が迫っている。だけど、だけど・・・

 そんなとき、顧問の先生と職員室前で出くわして話す機会があった。「残念だったな。」前置きは、何回ももらった言葉だった。ただ、その後が違っていた。「運が悪かったわけじゃない。お前はその学校と縁がなかったんだ。そういう運命だったんだよ。縁がなかったんだ、受からなかったのは仕方ない。長い間、よく頑張ったな。

 恐らく、顧問の先生は「運が悪かった」ということでさえ、彼が自分自身の要因に落とし込むことを見抜いていたのだと思う。あの時こうしていれば…とか、受かる確率は高かったのに…という考えを予防するために「縁がなかった」という言葉を使ったのだ。

 事実、彼は顧問の先生から励ましてもらった後、その考えが浮かんでくることは無かった。その後、後期の試験にも無事受かり、充実した大学生活を送っていて、"発信力を上げる"を合言葉に、現在noteを書いているとか、いないとか。

「誰も信用しない」は自己成長へとつながるか

  「誰も信用しない」と、自分が全力を出したのに報われなかった次の2つの場面でがたが来てしまう。今回は一つ目の場面にあたる。

・自分は頑張ったけど、思い通りの結果が得られなかった。

・自分は頑張ったけど、周りの環境やそのほかの要因で失敗してしまった。

 "他責"は市場のせいにしてしまうので、行動の改善が図られない。"自責"は自分のせいにするので行動が改善されるが、時には精神健康上よくないときがある。おそらくそれは個人個人によって異なるのだろうが、例えば2度と同じようなチャンスがめぐりめぐってこないとき、思い入れが強かった時など、行動改善は難しく、自責は毒となる。

 そんな時、他責でもなく、自責でもない、いうなれば「非他責、無責」という考え方があってもよいのではないか、と思う。子供の行動改善の心理学的アプローチとして、それを架空の虫のせいにするというものがある。例えば子供が他の友達に暴力をふるってしまうとする。それの原因は「暴力虫」が子供の体に入っているからそういう行動をとってしまうのだとし、子どもの前でその虫のイラストを叩いて、子どもにも叩かせて、疑似的に追い払ってみせるというものだ。通常であれば、「お母さんが見せているテレビが悪いのではないかとか、お父さんがいつも家にいないからなのではないか」といった具合に責任の探り合い、もとい押し付け合いが始まるところだが、責任を他の場所に移すのだ。そのことは問題点だけに目を向けることにもつながるだろう。

  さて、長々と書いてきた。今回は「誰も信用しない」の人間関係の影響についてあまり言及はできなかった。だがここでは、成長という点においてフォーカスして、『「誰も信用しない」は自己成長へとつながる。しかし、抱えきれないものはある。そんな時は、早く動き出せるように「非他責、無責で処理するべき』を結論として、話を終えたい。



おまけ

 今回は、ドレスコーズの『ゴッホ』を紹介したい。メッセージ性が強く、聞いている私たちを強く励ましてくれる曲である。「"ああ 男の子 ちゃんと傷つけ 今は 偉大なあやまちの真っ最中"」私は自分の自然治癒力に期待したい。

ドレスコーズ 『ゴッホ』LIVE ver


 ---今回の感謝---

顧問の先生I

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