見出し画像

【記録として】 令和6年 能登半島地震


2024年1月6日(土)
地元の長野県信濃町から東京に戻り、少し落ち着いたのでこの記事を書いています。
※今回は、記事にするか非常に迷いましたが、自身の気持ちの整理と、情報の共有という観点から、発信することを決めました。

まず、この度の地震で命を落とされた方々に心からお悔やみを申し上げますとともに、被災された方々にお見舞い申し上げます。

1月1日(月)日本海の海岸線で地震を経験

この日は信濃町から私の妹、弟の3人で上越に出かけていました。
あいにく海は少し荒れていましたが、久々に集まった妹弟と景色を見ながら日本海の海岸線を走っていました。

16時10分ごろ
日も傾いてきて、そろそろ帰ろうかと話していた時に、突然前を走る数台の車が路肩に寄って停車するのに気がつきました。我々の車も合わせるようにして停車したところ、強い横揺れを感じました。車外に見える電柱や電線が揺れており、これは大きな地震かもしれないと、、。

直後、我々の携帯から地震速報のアラーム。慌てて近くのコンビニにの駐車場に入り、私は車から降りて、周囲の状況を確認することにしました。駐車場には同じように車が何台か入ってきていて、車内から人が降りてきている状況でした。すると、そのうちの誰かのスマホから、「津波です」の音声が。

すぐに車に戻り、高台にある小学校に避難しました。すでに何台もの車がこの小学校を目指してきており、我々もなんとか学校の駐車場に車を停めることができました。

16時20分ごろ
小学校には、車で、徒歩でと全部で150名くらいが避難してきていたと思います。
その数分後、町内のスピーカーから、津波に注意するようアナウンスがありました。車内で過ごす人がいる一方、徒歩で来た人は体を寄せ合うなどして過ごしていました。このとき既に私の携帯の電波は繋がっていませんでした。裸足で逃げてきている人もおり、事態の深刻さが窺えました。

小学校に避難後、カーナビで事態の深刻さを知る

16時30分ごろ
小学校へ向かってくる車は数十台の渋滞、駐車場では駐車場所の取り合いによる言い合いや、寒さや不安、携帯がつながらないストレスで、現場は緊迫していました。

その時、地元の有志と思われる男性数人が、「学校を開放しよう」と、鍵の閉まっている校舎の裏口のガラスを車に積んであった工具で破り、学校が臨時の避難所として開放されました(学校は冬季休暇のため全て施錠されていましたが、各所に緊「急時にはガラスを割って入ってください」という趣旨の文言と担当教員の電話番号が書いてあり、携帯がつながる方が開放前に許可を得てくださっていた)。
幸いなことに、学校の電気水道は生きていて、小さな子供やお年寄りは暖房やお湯、ベッドのある保健室に、そのほかの避難者は各教室に避難しました。よく体育館が避難所としてイメージされるかもしれませんが、この時体育館は特に寒く、暖房でより早く温まる教室が主に使われていました。
この頃になると、小学校の先生方も校舎に到着され、教頭先生を筆頭に校内アナウンス等を利用して指揮をとっていただけたことは非常に有り難かったです。
我々はそのまま1時間半ほど小学校に停めた車内で避難していました。

18時ごろ
周囲は真っ暗になりましたが、学校には明かりが灯り、車の渋滞もなくなり少し落ち着いてきました。数台の車は、安全を確認した上で学校から離れていきました。我々も、避難所で学校で一夜を明かすか、安全を確認した上で帰宅するか判断を迷いましたが、帰宅することを選びました。このとき、車のガソリンがかなり少なくなっており、できるだけ早く給油をしようとガソリンスタンドを探しながら帰ることにしました。

高速道路は全面通行止めだったので、下道で帰ることとしましたが、帰路の途中、土砂崩れで道路が寸断されており、一時は帰宅を諦めましたが、偶然、赤色灯をつけた車両が後ろから来たため、先導してもらう形で海沿いではなく山中を通り、上越市街に辿りつきました。
しかし、どのガソリンスタンドも数十台の給油待ちの渋滞ができており、とても給油できる状態ではありませんでした。状況を整理するために近くのコンビニにも入りましたが、おにぎりやパンといったすぐに食べられる食料品はほとんどありませんでした。

21時ころ
その後、なんとか給油可能なガソリンスタンドを見つけ、信濃町の実家に戻ることができました。実家には目立った被害はありませんでした(信濃町は震度5弱を観測)。その日、正直なところ生きた心地はしませんでした。。。

まとめ

私が生きてきた中で経験した大きな地震は大きく二つです。一つは、新潟中越沖地震(2007年)、もう一つは、東日本大震災(2011年)。どちらの地震も信濃町で経験し、大きな揺れを感じたことを覚えていますが、今回ほど緊迫した状況になったのは初めてです。今回の件で学んだことは大きく三つです。

一つ目は
車のガソリンは、こまめに補給、少量でもいいので食料品を備蓄しておくこと
災害が起きてからガソリンを補給するのはほぼ不可能。食料品を手にいれることも困難になることを、頭では理解していましたが、初めて痛感しました。

二つ目は
自分を過信して行動せず、できるだけ冷静に判断すること
今回は奇跡的に、その日のうちに自宅に帰れましたが、帰路の途中が土砂崩れ通行止めになっていたり、後の報道を見ると、帰路のすぐ近くまで津波が来ていたことがわかりました。災害等、緊急時に焦ってしまったり、冷静でなくなってしまったりすることがあるかもしれませんが、できるだけ冷静に周りを見て行動することが大切だと感じました。

そして三つ目は
土地勘がないところで被災した際は、下手に動かないこと
今回、小学校に避難したときに、車の整理や、学校の開放など、自分が進んでやらねば、という気持ちが大きかったですが、既に地元の方々が動き始めてくれていたこともあり、私は妹弟に気を配りました。
実際、それで良かったと思います。土地勘のない人間が、下手に動いてしまうと、かえって現場の混乱を招いたかもしれません。仮に動くとしても、土地勘のある方の指示に従うなど、無理はせず、小さなことでもいいので自分にできることをすることがいいのではないかと感じました。

少し長くなってしまいましたが、今回の経験をまとめました。
この記事を書いているときに、私のアパートには何も備蓄していないことに気づいたので、帰りに買って帰ろうと思います!

できれば二度と経験したくないことですが、絶対に遭遇しないとは言えません。
災害がいつきても対応ができるよう、心がけておきたいと心の底から感じた2024年の始まりでした。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?