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父のことと、事業と幸せについて考える

うちの父、ただ今87歳
もうすぐ米寿です。
 
今年に入って心臓が少し弱ってきて、ペースメーカーを入れたり、病院通いもしてますが、家のこと・洗濯や食器洗いもしながら母と暮らしてますので、十分元気な方だと思います^^
 
うちは3人姉妹で姉が近くに住んでいて、何かと立ち寄ってくれるので、私が通院担当、妹が祖父の月命日にお墓参り担当と、なかなか姉妹で良い役割分担ができてます。
 
■ 
 
父は姉と弟2人がいる長男で、祖父が興した牛乳販売店を私が2歳の時に倒産させることになりました。
 
大阪市内で牧場をしていいた親戚からや、大阪南港に早朝届く淡路島からの牛乳を仕入れ、自宅横の工場で精製と検査・瓶詰めをして自転車やオート3輪で各家庭や菓子工場、地下街に卸したり、販売していました。
 
のちに家業になった病院売店は納入先で、もともと庶務課が運営していたところ、手間がかかるので「寺西さん(私の旧姓)やってくれへんか?」と頼まれたことからのご縁。
 
そして叔父が父から継承し、今は従妹夫婦が担っている大阪・天王寺のお好み焼き屋さんも、大阪地下街から空き区画で何かやって欲しいと言われ、最初はミルクスタンドをやったのだけど「それでは儲からん」ということからお好み焼きになりました。
 
牛乳販売店時代は大阪に地下鉄が徐々に伸びようとしていた時代で、路面電車の方が主。
その脇を自転車に牛乳瓶の入った箱を何箱も積んで走ってたこと。
 
団地ができ始めた頃で、若い衆たち(父も若かったけど)と一緒にトラックの荷下ろしや引っ越しを手伝って、片付いた後に牛乳の日配をお願いしたりしてたという話。
 
大阪の街が成長していく時代と、父の牛乳販売店時代が重なっていて、話を聞くのが好きでした。
 

 
牛乳販売店が倒産したのは昭和44年で妹誕生・私は2歳、姉7歳。祖父が興した会社を潰した父は自分のことを「(商才のない)貧乏人のボンボンや」と揶揄することも多かったです。
 
家業が病院売店に落ち着くまでは、お好み焼き屋や親戚のトラック会社にもお世話になってた時代もあるので、両親とも3人の姉妹を育てながら、なかなか大変だったと思います。 
 
実家がそんなのだったり、親戚・父方母方とも商売人。家は商店街の端だったり、祖父母のもとにはいろんなお客さんで来るので、いろんな人を見聞きしながら育ちました。
 

 
そんな背景がありながら、私の中でいつ頃からか、「事業の成功(繁栄)と家族の幸せはイコールではない?」というのがいつしかモヤっと浮かび上がってきていました。
 
大きな商売で家族仲良いところ、もちろんありますが、一家離散や短命、祖父も晩年は脳梗塞で寝たきり状態が長く続きました。

一概に何がどうと言えませんが、
 
「笑顔と安心届けて行きたい」に私がこだわってしまうところ、何のための事業・商売なのか、根っこはここにもあるんだろうなって思います。
 

 
父が今年の春の退院早々の頃、歩くのがおぼつかず、支えていた私に、「こんな世話なってすまんな。はよ元気にならなな・・・」と言ったのですが、
 
「別に良いよ。これまで十分元気やったし、これまで十分十分お世話になってきたし^^」と伝えました。
本当にそうだと思います^^

 

先日・たくらみ屋のイベント@高知にて
ネッツトヨタ南国の取締役相談役 横田英毅さんが「経営にとって一番大切なことは、一番大切なものを一番大切にすること。」とおっしゃいました。
 
この言葉を聴いた時、とても嬉しかったのと、「事業の成功(繁栄)と家族の幸せはイコールではない?」にモヤっとしていたことが少し晴れました^^

今度父に会った時、教えてあげなくちゃ^^
 
寺西商店は7年前、病院売店終了時に私が廃業届を出したので、もう存在はないのだけど、最後の17年間、一緒に商売できたことは私にとって大きな幸せであり、宝物であるのです。
 

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