見出し画像

「子育て」と言う旅の終わりに向けて…

 子育てに「終わり」はあるのだろうか?

 子ども達に対する親の願いは、「健やかに育ってほしい、そのために、できる限りの事をしてあげたい」と言う事に尽きると思うが、そもそも子どもが「健やかに育つ」とはどういう事なのか、もっと具体的に言えば、親として、子ども達が「どの様」に成長すれば、親にとっての「子育ての目標」を達成した事になるのだろうか。

 1960年代に始まった高度経済成長以降、子ども達の健康状態は大きく向上し、かつて「7歳までは神のうち」などと言われて、沢山産まれて来るけれど、5歳を迎えることなく亡くなる子ども達も少なくなかったのが、次第に、何か特別なことがない限り、健康に成長できる様になった。これも「もはや戦後ではない」と言われ、好景気に沸いたこの時代以降、人々の懐具合が良くなるにつれて、子ども達の栄養状態が改善された結果だと考えられている。

 一方で、時代の変遷とともに、働き方や人々の生活にも大きな変化が生じ、その影響から、子どもの出生数は1970年代半ば以降減少に転じたワケだけど、一家族あたりの子どもの数が減った…と言う事は、一人当たりの子育てに費やせる資金が増えたと言う事でもあった。

 1960年代に子育てをしていた父親・母親の子ども時代は、と言えば、長い戦争の時代であり、そんな時代を生きてきた人たちが親となって自分たちがやりたくてものできなかった事、やろうとも思わなかった夢の様な事を、自分の子ども達にはやらせてあげたいと考えたのは、親心として理解できる事だと思う。

 実際、昭和30年代の前半に産まれた私の同級生の話を聞くと、いつの間にか親が決めてきてしまって、やりたくもないのに(…どころか、見たことも聞いたこともなかったのに…)ある日突然、ピアノ教室やバレエ教室へ連れて行かれた、なんて言う思い出話をよく耳にする。自分たちの子ども時代には、望むべくもなかった「情操教育」を、子どもにはぜひ、と言う事だったのだろうし、それを実現できるだけの経済的なゆとりも生まれたと言う事だったのだろう。

 やがて昭和40年代に入ると、高校や大学への進学競争が厳しさを増す一方で、それにつられるように、お稽古事に加えて教育熱が高まり、それも次第に、より早い時期、早い時期とだんだん低年齢化した「早期教育」が加熱して行くこととなる。

 「子どものために」と言う親の気持ちは、もちろん否定も非難もされる様な事ではない…が、ここで一つ忘れてはならないのは、その情熱の対象となる「子ども」は、親とは違う「別の人」なんだ、ということだ。

 親はいつでも「あなた(子ども)のために……」というけれど、そんな親の「思い」と子ども達への過干渉のハードルは思いの外、低いんじゃないだろうか。

 親として「良かれ」と思って始めたことを、本当に子ども達も望んでいるのかどうか、判断する事は案外難しい。
 子ども、特に乳幼児期の子どもにとって、親は絶対的な存在だし、多くの場合、この時期の子ども達は無意識に親に対して絶対的な信頼感を抱いている。実母から虐待を受けている子どもの多くが、最後まで自分を虐待しているそのお母さんをかばい続けると言うことはよく知られているが、その姿ほど、傍目で見ていて切ないものはない。

 この時期の親と子の関係性に、子どもの側から何かできる事など、まぁ、何もないに等しいだろう…と、すれば、ここはやはり、親の方で心を配る必要があるのだろう。

 親は、常に子ども達の成長を冷静に見つめて、彼らとの間合いを測りつつ、日々の暮らしの中で接して行く、という事じゃないか。

 習い事だって学習塾だって、最初は「親の思い」で始めても良いかも知れないけれど、子どもの成長を見守りながら、子ども達の「本当の思い」に気を配り続ける必要がある。小児科では、私立の小学校や中学校を受験する子ども達の健康診断をする機会があるが、健診にやってくる幼稚園年長組の親子の様子を見て、こちらが心配になってしまう事も少なくない。

 人生はよく「旅」になぞられて語られる。
 人生が「旅」だとすれば、子ども達は「旅」を続ける仲間であると同時に、いつかは旅立つ、そんな存在だと言えるだろう。

 親にとっての「子育て」と言う「旅」の終わりは、子どもたちに取ってみれば、親から自立して自らの足で自らの旅を始める事なのだ。
 いつかは必ずやって来るその日まで、例え、親の心情としては辛くとも、子ども達を「やがて自立して巣立って行く存在」として意識する事が大事な様に思う。

 親の子どもに対する「いつまでも守ってやらなければ…」と言う思いを拭いさる事は簡単ではない。が、しかし、親にとって、子ども達への「過干渉のハードル」は思いの外低い、という事も忘れてはならないと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?