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文章を書くこと、ひいては自分の本当に持っているものを正直に示すということについて。

世間はクリスマス、そして正に24日から25日へとちょうど差し掛かったこの時間こそが聖夜と呼ばれるものなのだろう。(もっともこの文章を書き終えた頃にはもう朝を迎えようとしていたが)
私はそんな聖夜など、どこ吹く風、クリスマス色の一切無いリビングを暖房で無機質に暖め、少し頭痛を抱えながら椅子に座って物事を考え、或いは考えようとすること自体をやめようともしていた。
考えることをやめるのに、ゲームをしたり、ネットを開いてYouTubeにアクセスしたり、或いはSNSにアクセスしてみたりするが、それらの行動は大抵新たな、それでいて粗雑な思考を誘発するのみで、それらはやがて居心地の良い自意識の殻の中へと自分を追いやってしまう。
そうして、自分はかつて"そのことについて考えていた"ということさえ、いつの間にか忘れてしまうのだ。

"自意識の殻の中"というのはつまり"エゴ"のことで、いわば幻想世界と言ってもいい。
誤解を恐れずに言えば、この世(社会、文明)は現在(いや、未だかつてと言ってもいいかもしれない)この幻想を基に造られている。
それでいて、正にこの瞬間の一瞬一瞬こそが、創造され、蝸牛の歩み程かもしれなくとも、推進の最先端に、在る。それは幻想世界に囚われている、囚われていないに関わらず。


幻想世界とはいわば物質主義的、二元性の世界のことだ。
我々はそもそもその世界に適応するために肉体を手に入れ、やがてアイデンティティを形成し、ロールに合わせてキャラクターを作っていたはずなのだが、いつの間にかそこが舞台の壇上だという事はすっかり忘れて、ついつい役に入り込み過ぎてしまう。

...芸術、真の創造が人を惹きつけるのは、紛れもなく幻想世界の外から語られた"こと"であるからだ。
それは芸術という分野においてであれば、アーティストによって音楽、絵画、詩、舞踊、彫刻、建築...etc 色々な形を成すが、美しい創造の前ではいつも別世界へといざなわれる。
それはそれぞれの作品ごとの道を通って、しかしながら、最終的には同じ場所へとやがて終着する。それはある意味で回帰とも言えるような地点に当たるのかもしれない。

そういった意味で、幻想世界にありながら、その幻想をある面では壊す役割を持っている"真の創造"をこの世で貫くことは大変骨が折れることなのかもしれない。歴史的に多くの人々がいたと思うけれど、ある部分では幻想と一定の折り合いをつけていたり、或いは貫き通して早死にしてしまったり。

...この記事のタイトルにある言葉でもあるが、村上春樹氏が何かのインタビューで"自分が本当に持っているもの、本当に感じていることをただ正直に示すこと"というような言葉を使って答えていたのだが、私はこの表現がとても大好きだ。
つまりは、生きている以上、これ以外にするべき事など元より無いはずだし、皆きっとどこかで"それ"に向かってそれぞれの分野、文脈の中で推進しているはずなのだ、潜在的であれ、顕在的であれ。

だからこそ、自分が"本当に持っているもの、本当に感じていること"に対して、よく日頃から観察しておかなければならない。あなたが発現したいことはエゴからの顕れか否か。どちらであるにせよ、それをうまく表現するための術を、あなたは身に付けているかどうか。


...私にとって文章を書くことは、その表現の一つの術であり、生粋の物書きではないにしても、もう少し真摯に向き合いたいなと、そう思ってこの文章を書いた。
そういえば、今年の1月から連載マガジンとして、毎日更新をテーマに半世紀ブログというのを書いていたなと、このnoteを久々に開いて思い出した。それは今となっては自分にとって遥か昔のように思える出来事だった。(色々あった2023年もまた別の記事で振り返りたい。)
少しでも生活費の足しになれば、と有料マガジンとして売り出していたが、今思えばそもそも誰が好き好んで取るに足らない音楽家のエッセーを月額¥200でサブスクするだろうか?と今思えば無謀な挑戦だった。タメになる音楽よもやま話とかベース奏法についての記事ならまだしも。

勿論、このように懐古しているということは数ヶ月で頓挫したプロジェクトなのだが、そもそもテーマ性からして有料にしたのが間違いだったというのが、やってみて何より分かった教訓だった。
そのテーマとはここでは詳しい概要は省くが、簡単に言うと死ぬまで毎日更新していくよ、という一生をかけた、ライフワークとも言えるような(今思えば)壮大なテーマだった。(半世紀ブログ、というネーミングは今から死ぬまで書き続ければ天寿を全うすれば大凡おおよそ50年くらいは書けるだろう、という由来によるものだ。)
自分でここに幻想的な価値を設定してしまい、結果的に自らでその表現を狭めてしまったのだ。

このテーマの前身として、私は10年日記というものを2012年頃から個人的に付けている。 10年が1冊になった日記で、2012〜2021で10年だから、2022年から晴れて2冊目に突入しているという訳だ。
20代前半の時は過ごしていく毎日にとにかく何か意味を見出したかった。そう思って、毎日を記録しなければと、半ば強迫観念に駆られて始めたのがきっかけだったと思う。何者でもない自分が何者かに成りたくて、そもそもが全て元より何者でも無いことに気付く、そんなプロセスの学びの一環であったなぁと現在は一段落し、最近は時折しか書いていないけれど、相変わらずその日記自体の存在が人生にとって心強いことに変わりはない。

とはいえ、一段落しようがしまいが、毎日死ぬまで生きているわけだし、何かを考えているのだから、それを公に、いっそエッセーブログとして書いてみるのも一つのアートに成るのではないか、と思って書いてみたのだが、今思えばせっかく満を持して世間に向けて自らを発信していくのに、わざわざ自分で購読制にしてどうしてその範囲を狭めたのだろうか、と少し疑問に思う。

勿論、一定のブランディング、金銭的価値を自分で演出して売り出していくこともこの世で生きていくには大切なことで、きっとその時はそんな事も丁度考えている時期だったのだろうと、そういった立場からは擁護することもできる。だが、商品は選ばなければならない。"あなたが本当に言いたいことが社会の中で金銭的価値を現在持つかどうか"はまた別の問題なのだ。

一方で、"本当に言いたいこと"なのであれば、金銭的価値云々に関わらず、それは世界にとって発現されるべきだ。それが創造の渦への一石、全体の推進、循環が捗ることに繋がるからだ。


一応ミュージシャンとしてもっと音楽で自分を語るべきだと、その機会と自己発信を強めていかなければいけないなぁと最近は課題を感じているけれど、トータルに、人間として、文章を書くことも読むこともシンプルに好きな事を思い出したので、こうして自由気ままに、また書いていきたい。


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