上原 浩 先生と未来

毎朝、出勤のバスの20分の中で
このnoteを書いていますkazuhikoです。
いつもお読み頂きありがとうございます。

私の誕生日は3/17なのですが。3/17よりも
昨日の3.11が10年前から原点になりました。
東日本大震災は本当に大きな出来事でした。

東北は僕は仙台や山形と郡山にもいたので、
多くの友人がいますし震災でも亡くなりました。

また新たな1日1日を歩める。
生きれる感謝をしたいと
3.11は誕生日以上に大切な日になりました。

そして、来月4月は、神亀酒造の
小川原さんが亡くなった月でして
3.11から4月は本当に想いが強くなる春です。

そして新型コロナ禍、昨年のマスク騒ぎからもう1年。
世界中。そして日本中、みんな1年もの間
本当にがんばったねと思っています。
東日本大震災の時もそうですが
普通ならば、大混乱になって然り。
日本人の心意気は素晴らしいと思います。

本当にみんなご苦労さまです。
1日1日を丁寧に生きていきましょう。
(花粉すごくて、少し免疫力低いkazuhikoです)

私が日本酒を想う時に、必ず存在する人。
「先生」と思っている人が「上原 浩」さんです。
実は「上原 浩さん」に会ったことは、ありません。
多くの著書を拝見して、影響を受けた人になります。

上原 浩さんの存在を、知ったのは
神亀酒造社長 小川原良征 さんから。

神亀酒造社長 小川原良征さんは、
神亀酒造 専務小川原さんの方が有名かもしれない。
本当に厳しい人で。笑。青年のような人で。
熱い想いに、熱い想いで返してくれるお父さんと言う
よりもアニキのような存在でした。
絶対に追いつかないアニキです。

小川原さんの事を日本酒業界で、知らない人はいません。いるとすれば日本酒業界の人ではありません。

僕も、お世話になって「酒屋の在り方」を
教えていただきました。厳しくも優しい瞳に
もう会えないと思うと、男泣きしてしまいます。

だから考えないように1年を走り抜けるのですが
この3.11の次の日は、やはり小川原さんの事を
思うのです。

日本酒業界にとって
かけがえのない人財であった神亀酒造の社長
小川原良征氏が2017年4月23日
すい臓がんでご逝去された。
享年70歳 大きな柱を無くした日です。

その事は、僕は自分亡き後も、存在するであろう
このnoteには書いておきたいこと。
3.11の次の日に書きたいことです。


アキモト酒店・秋元 浩さんのブログを、
皆さんに読んでほしくてシェアします。

小川原良征専務と、長いお付き合いの秋元さんだからこそ書けた深い内容です。

私は異端児で、小川原さんの最後の数年しかお付き合いが無いので小川原さんを多く語る資格はありませんが、僕が一言で語るならば

日本酒を純米酒へ。その功績は凄いのひとこと

です。

以下、アキモト酒店・秋元さんのブログより抜粋させていただきます。(ぜひ、クリックしてブログの全文を読んでください)
「神亀の小川原社長の告別式に行ってきました」
http://blog.livedoor.jp/sakeakmt/archives/65776583.html

「まだ純米酒という言葉さえ一般的でなかった1970年代、東京農大を卒業して間もない小川原社長は、アルコールや糖類で薄められた日本酒は造りたくないと純米酒を造りはじめ、取引の酒販店を回っては陽にさらされ日付の古くなったものを回収するなど品質管理にも努めました。それでもアル添、糖添全盛時代ではなかなか売れず蔵在庫が膨らむ中で熟成酒が増え、その熟成酒の美味しさが世に評価され始め、日本で指折りの早さで全量純米酒蔵になりました。
・その純米酒への流れを大きく加速させたのが漫画「夏子の酒」でした。夏子の酒の作者、尾瀬あきらさんを純米酒ファンにし、この漫画を描かせたきっかけを作ったのも、様々なインスピレーションを与えたのも小川原社長です。
・ 純米酒蔵を目指すも厳しい道のりの蔵を後押しするために純米酒ファンドを立ち上げ、酒米の産地を育てるために四国・阿波山田錦に深く関わり、10年ほど前からは全量純米酒蔵を目指す会を立ち上げ、代表幹事となっています。

日本酒の輸出が盛んになってきているここ数年は、日本酒親善大使のように世界中を駆け回っていました。食があっての日本酒、特に神亀は味がしっかりしているので油やクリームを使った料理でも、肉料理でも相性が良く、日本を代表する蔵として大きな評価を受けていました。
というように、現在の日本酒シーンを築き上げてくれた最大の功労者といっても過言ではありません。

・(中略)
私の日本酒との関わりに大きな影響を与えてくださった小川原専務(みんなに専務、専務と呼ばれていました)にはまったくご恩しかありません。
本当にお世話になりました。

ごゆっくり、安らかにお休みください。

・合掌」

神亀酒造社長 小川原良征さんから僕は
上原 浩さんの話を聴いて、多くの著書を
何度も何度も。今でも、読んでいます。

上原 浩(うえはら ひろし、1925年 - 2006年5月1日)は、日本の酒造技術者、元財務局課税物件鑑定官、元鳥取県工業試験場技師、鳥取県酒造組合連合会技術顧問、蔵元交流会常任顧問、日本酒サービス研究会(SSI)最高技術顧問、ここに美酒あり選考会審査委員長、鳥取県出身
Wikipediaより
生前は「日本酒界の重鎮」、「生き字引」とも言われたが、大変な「毒舌家」としても知られる。

「酒は純米、燗ならなおよし」
「一に蒸し、二に蒸し、三に蒸し、
四、五が無くて次に麹」
良い麹や酒母は、良い蒸米ができた時に
できるものであるという。
漫画家・尾瀬あきらは上原が顧問を務める「蔵元交流会」の特別会員である。上原が指導のため九州へ行く時でも、東北を回る時でもペンとカメラを持って付いて行き、そして酒についてあれこれ質問をする。漫画のネタを仕込むためとの理由であり、尾瀬の熱心な取材により代表作の『夏子の酒』(モーニング、講談社)のネタ元になっている。そして作品中に上原自身をモデルにした元広島国税局鑑定官の「上田久」という人物も登場している(単行本8巻p.154以降に登場)。

僕は「夏子の酒」の影響は本当に大きい人なので。笑

酒屋になるきっかけでもあります。
夏子の酒の漫画を知らない人も多いので簡単に

夏子の酒

造り酒屋を舞台として酒米を題材に日本の米作り・農業問題を取り上げた社会派漫画。農業問題とともに、それまで一般的に知名度が低かった、三倍増醸酒と純米酒をめぐる問題など日本酒業界の抱える構造的問題を世に知らしめ、テレビドラマ化をきっかけに、日本酒への関心が高まり酒造業界に大きく貢献したとされる 。
なお「幻の酒米を復活させる」ストーリーは「亀の尾」という酒米品種を酒造家が復活させた事例を参考にして、組み立てられた。
Wikipediaより
あらすじ

佐伯夏子は、実家の造り酒屋を出て、東京の広告代理店でコピーライターとして働いていた。実家の佐伯酒造では、兄の康男が、幻の酒米「龍錦(たつにしき)」を使った日本一の酒を造るべく奮闘していたが、志半ばで病に倒れ、帰らぬ人となる。生前の兄から、夢であった日本一の酒について聞かされていた夏子は、会社を辞め、龍錦を使った日本一の酒を造る夢を引き継ぐため実家に戻るが、数々の試練が夏子を待ち受けていた。

Wikipediaより
原作の舞台となる「佐伯酒造」のモデルとなったのが、「久須美酒造」です。
新潟県は長岡にある蔵元で、ドラマのロケもここで行われたそうです。
原作の酒米「龍錦」のモデルは、「亀の尾」。
実際に久須美酒造の6代目が、この「幻の米」探しに奔走。
穂にして10本、約1,500粒のわずかな種籾を手に入れて、「亀の尾」をよみがえらせました。
残念ながら美人の経営者「夏子」はフィクションですが、酒づくりにかける物語は、この久須美酒造の実話がモチーフとなっています。
ラベルにも「夏子の酒・ゆかりの蔵」と記載されています。


実はこんな話もあるんですよ。

今、夏子の酒と言えば、「るみ子の酒」。
1992年、漫画家の尾瀬あきらさんの命名・ラベルにより誕生。

蔵元の娘である森喜るみ子さんが、『夏子の酒』を読み、感想文を送ったことによる。
製品はすべてが純米造り、機械はほぼ使わない手造りで、可愛いラベルが印象的だが、酒はなかなか骨太。

上原さんの故郷の鳥取県の話も出てくる
夏子の酒ですが、上原さんの言葉は
今も日本中の蔵元の世界に生きています。
沢山あるのですが、今日は1つだけ。

「酒は純米、燗ならなおよし」
「一に蒸し、二に蒸し、三に蒸し、
四、五が無くて次に麹」
良い麹や酒母は、良い蒸米ができた時に
できるものであるという。

結局「蒸し」にこだわると
「洗米」にこだわらないといけない。
「吸水」の話にも繋がるわけです。
深い深い話は今回はパスで。笑


私が、このブログで1番最初に書いた

神亀と同じ埼玉県の蔵元でもある

1844年弘化元年創業の老舗酒蔵
越生梅林園のすぐ側の佐藤酒造店

そこにはこんな想いがあります。



「夏子の酒」はフィクションですが

東日本で1番若くして女性杜氏になった
埼玉県で初めて女性杜氏になった
佐藤酒造店の長女 佐藤 麻里子 杜氏
は、実在する令和の夏子の酒であり
実は夏子の酒よりも過酷な
「まりこの酒」でもあります。と言うこと。

梅の季節にこのnoteを描き始めたので、
名酒 越生梅林を醸す 佐藤 麻里子 杜氏
の存在を忘れることはできませんでした。

「酒は純米、燗ならなおよし」

と言う上原さんの言葉通り、

佐藤 麻里子 杜氏は
若き20代の時に(現在、この3月の誕生日で30歳に)


2019年 純米酒(橙)で金賞
2020年 特別純米酒で金賞と

本当に直近の全国燗酒コンテストで認められ。

上原さんの「純米酒」「燗酒」なら、なお良し。

の燗酒で腕をメキメキあげている未来が楽しみな
杜氏さんだからです。

もちろんまだまだ若手。10年杜氏をやって
やっと一人前と言われる世界です。

本当に未来のまりこの酒が楽しみです。
これからの物語も含めて応援したい杜氏です。

佐藤麻里子 杜氏は佐藤酒造の長女です。
蔵を見捨てることは、ありません。出来ません。
自分が育って来た環境が生まれた時から酒蔵で
生涯、酒蔵で生きていく生粋の蔵人です。

だから精進するしか無い人生なのです。


それは 漫画 夏子の酒よりも、今の激しい時代に
生きる姿は、本当に応援してほしいと思うのです。
少量仕込みで本当に少ない量しか仕込まない
佐藤酒造店の酒はファンで成り立ってほしいと
神亀酒造のお酒のように思うのです。

神亀の専務の小川原さん。あ。社長の小川原さん。
は多くのエピソードと神話を持つ人ですが
(都市伝説も多い)

逆風はねのけ本物の酒造り 
蓮田・神亀酒造「絶対に潰れない」

の中で書かれているように。

小川原はどんな状況であろうと決まった段取りを崩すことを許さない。「一度容認するとなし崩しになって、手抜きが当たり前になる」。小川原は3カ月分の給料を手渡して、若手蔵人を解雇した。

 奈良の酒蔵を辞め、この年に神亀にやってきた杜氏の太田茂典(52)は「専務(小川原)は一度言ったらきかない。原杜氏(当時)もあきれて新潟に帰ってしまった。

杜氏さんでお酒は決まるわけですが。
小川原さんの時代は今とは違います。

そもそも、日本酒の歴史が、出稼ぎの杜氏軍団が、冬の間。蔵元を回ってお酒を醸して、また故郷に帰る。ような「杜氏に酒造りは全部任せる」「蔵元は、極力、こう言うお酒を造ってほしい。でも、文句は言わない」と言うような暗黙の了解があったわけです。
(結構、大工さんも似てますよね。笑顔)

本当に特殊な世界だったようです。
今は、年間雇用する蔵元も増えて来ています。
問題は、この新型コロナ禍で飲食店が営業出来ず
廃業に追い込まれる中で「蔵元の生産量」が減ると
その年間雇用も、成り立たない時代が来る事です。

佐藤麻里子 杜氏は、我が家です。
やはり、杜氏として家の商いとして
その想いは、どっしりとしています。
給料が無くても酒を醸すことでしょう。
1844年弘化元年創業の酒蔵を繋いでいく事。

(もちろん、あくまでも例えです)

その心意気は、自分の家の稼業。
だからこそ、想いは募ります。
それをカタチにできないもどかしさも、あります。


1844年弘化元年から梅と共に生きる
酒蔵の話「鑑評会」


で細かく触れましたが


日本酒の世界は、実は「若い杜氏」や「新規参入」などでは、なかなか賞は獲れません。

まるで高校野球のように「甲子園常連」が決まっていて、千以上ある世界で上位に食い込むのは
「一般酒」では、本当に挑まないのが、本音です。

一般酒で金賞入賞すると言う事は、本当に凄い事です。

「未来」…たしかに先が見えない時代です。
でも、応援したい人がいます。

佐藤酒造店だけしか今は書いていませんが
多くの蔵元の応援どうぞ宜しくお願いします。

新型コロナは頑張っても頑張っても
心折れる大きな大きな出来事です。

蔵元から直接、購入して頂くことが
蔵元の製造のモチベーションに、点滴のように
即、活力になります。
どうぞ宜しくお願いします。

佐藤酒造店のお酒が
オンラインで買えるように、なりました。
公式HPのサイトです。是非一度お立ち寄り下さい。

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