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日本紀|天皇家に羌族の血が流れている?

日本紀とは?

臨済僧・中巌円月(1300年~1375年)が編纂した『日本紀』という書物があったのをご存知でしょうか?日本の南北朝時代のことです。

この日本紀の中で、中巌は「皇祖(天皇家)は呉太伯の後裔」とする説を唱えました。

実はこの説、日本紀だけではなく、中国の史書でも見られます。『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『晋書』東夷伝、『梁書』東夷伝などに、倭について「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とあります。

但しこれは朝廷の紛議をかもし、世に広がることもなく今ではまともな議論すらされていないのが実情です。万世一系を唱える記紀の正当性を守るために、当然の憂き目かもしれません。

呉太伯とは?

とは言え、ここは中巌の説を少し見ていきたいと思います。「消された痕跡」を辿ると、真実が見えてきたりしますので。

まず、呉太伯とは誰なのでしょう。周王朝の古公亶父までさかのぼって復習して頂くと分かりやすいと思います。

上記で記載した古公亶父と太姜の子(長子)が、太伯です。

長くなるので簡潔に書いてしまいますが、この太伯は句呉(こうご)と号した国を興しました。その土地(荊蛮)の人々はこれに従ったのですが、この国が呉の始まりと言われています。

そう、皆さんご存知の「呉」ですね。

羌族の母を持つ太伯が、呉を興し、その末裔が日本に渡ってきたというのが、冒頭の中巌による説というわけです。

再びハプロ的考察

おそらくは天皇家の万世一系を守るために見向きもされないこの説ですが、ハプロ的には呉越の人が日本に渡ってきたことは間違いありません。下記はご参考まで。

時代背景的には、楚の熊氏も日本に渡ってきていると思います。呉越があった場所を統治したのが楚です。

呉を興した太伯の子孫が日本に来ていれば、間違いなく羌族の血が渡航してきたことになります。楚を興した鬻熊の子孫が日本に来ていれば、それは昌平君(熊啓)の血筋も日本に渡航してきたということになります。

恐らくですが、この2つの流れは間違いないと見ています。問題は、中巌が言うように、太伯の子孫の血が天皇家の血統に含まれているか否か、ですね。もし流れているとするならば、天皇家に濃い羌族の血が流れているということになります。

それはそれで、ワクワクしますよね。

果たして、「日本紀」の真偽が分かる日は来るのでしょうか。



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