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再編集|李信の子孫が中華統一!?①

中華の古代史を調べているうちに、なんと、秦の始皇帝を統一までサポートする秦の将軍「李信」の家系図にたどり着きました。

とある雑誌の特集からの抜粋なので、きちんと宣伝もさせてください。

(引用:中國紀行CKRM Vol.15/主婦の友ヒットシリーズ

ちょっと見づらいかもしれませんが、この李氏の家系図の頂点が…なんとあの李信なんです!秦の大将軍に上り詰める李信なんです!!キングダムファンならもうここで胸熱じゃないですか!?

ここから先は、家系図から掘り下げて行きますので、出来れば雑誌を購入して以降を読んでください。出版社の皆様、引用大変失礼致します。素晴らしい本でございます。

で、冷静に家系図を見ていくと、物凄いことが分かります。

1.李信の子孫が北魏を建国する

2.李信の子孫が唐を建国する

秦の始皇帝は当然凄いのですが、もしかすると李信の家系の長期に渡る中華への影響も計り知れないということになります。まさに、名家。本当に戦争孤児からここまでのし上がったのか…と思うと感動で涙がこぼれます(戦争孤児かどうかは漫画の脚色があるため事実かどうかまでは不明。恐らくは、元々名家でしょうね)。

北魏の建国は、あの匈奴を追いやってるわけですから…相当な武力を誇った勢力であったことが想像出来ます。中華内陸の大国をも苦しめたのが匈奴です。その勢力を追いやって建国するわけです。それはそれは凄いことです。

<王朝勢力年表>

雑誌内では、李陵の妻「拓跋」が後の拓跋部になっていくということが、史書を引用しつつ書かれています。いわゆる鮮卑拓跋部の祖ということですね。そして拓跋部の拓跋珪が、「北魏」を興すのです。

<鮮卑が勢力を拡大した頃の勢力図>

<拓跋珪こと道武帝>

拓跋珪は、敵対する五胡諸部族を平定し、後燕国の混乱に乗じて黄河以北の華北平原を征服。首都を平城に移し398年皇帝の位に就いた。

おぉ、秦の始皇帝に倣ったのか分かりませんが…ついに大将軍・李信の子孫が平城で皇帝に!!

ここに至るには、「李陵の悲劇」もあったわけで…感動の涙が止まりませんので、この続きはまた次の記事で。

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