言葉の魔力 〜「トランスジェンダーになりたい少女たち」感想〜


 一生投稿出来ないので雑に投げます、ごめんなさい…読まなくていいです……

まえがき

 元々は読書感想文だったんだけど、投稿しきれないまま長らく範囲が広がっちゃったので副題に。読書感想文って学生の頃吐くほど嫌いだったけど、最近はそんなに嫌いじゃない。やらされてる感とかが良くないんだろうね。もっとフリースタイルの方が良いのでは?「読んだ本について後から思い出せるように好きな形で表現してください。例:文章、ラップ、絵、音楽」みたいな感じにするのどう?

 本文中でも軽く触れていることなのですが、言語は即ち思考であり、こうして言語の力についてのnoteを書くというのはある種のメタ認知を求められる行為だと感じます。まだ脇道に逸れてばかりで上手に書けないですが、若輩者の戯言として流し見てください。めんどくさそうだな、と思った人はここで帰ってね!!!

まとまらない本文

  「トランスジェンダーになりたい少女たち」を読んで思った感想とか。重要な示唆に富む本だと思うのだが、類似の言い回しが多くて読むの疲れた。ジャーナリストによる本らしいので、取材内容の列挙から丁寧に話を進めている点では正しいかもしれない。
 早速余談だが、「冗長」という言葉はITに携わってから否定的な意味から肯定的な意味に転じたように思う。システムの冗長性は可用性の確保に必須である。(注:同じ機能のサーバーをたくさん並べるようなことを冗長性と呼び、それにより数台サーバーが落ちてもサービス自体は問題なく使えることを可用性の確保と言っている)もしかすると、冗長な本はページの落丁や悪意ある切り抜きへの対策なのかもしれない。(?)
 人間の余裕というのも恐らくは冗長性に大いに基づくものなのだろう。必要ではないものも大切にして生きたいものだ。

 本題。本で感じた内容なのだが、思春期に少女たちをトランスジェンダーに向かわせる要因として、言葉の魔力が大きいように感じた。トランスジェンダー思想は旧来のジェンダー区分を限定化することによって性別違和を抱かせる側面がある。例えば、「女性は数学が苦手なものである。」と教えられた数学が得意な少女は、「私は女性らしくない」と感じ、本来踏み出さなかった一歩を踏み出す。男と女の間に虹色の言葉を用意するわけだが、その意味空間をを確保するために男と女の意味を限定しているように感じられる。

 虹色の言葉。自分で書いて思うのだが、この言葉はちょっと面白い。色は視覚を規定し、言葉は知覚を規定する。両者には一定のアナロジーがあるように思う。色に関して言えば、アイヌ民族とアンミカにとって白は単一の色ではないのだ。彼らにはそこに無数の表現を持ち、その数だけ色を峻別することができる。言語に関して言えば、ウィトゲンシュタインはその限界が思考の限界を規定すると考えた。
 もともと虹には無数の色が含まれ、七色に見えるのだとすればそれは言語によって規定されるからだ。本を読み、トランスジェンダーによる言葉は思春期の曖昧な自己認識を型にはめる側面があるのではないかと感じた。
 最近子供も生まれアイデンティティの確立について少し考える。曖昧な自分を理解するプロセスというのは本来的に苦しいものであり、その中で掴むからこそ揺らぎの小さいものになるように思う。それは探した絵の具を混ぜて欲しい色を作る過程に似ていて、揺れ動く自分を眺めながら少しずつ慎重に色を足すようなものだ。時には失敗した経験を使って一から作り直すこともあると思う。
 それに対して、虹色の言葉から自分が何に属するのか考える行為は、はじめからあらゆる色がのったパレットから選ぶだけの作業であり、上の行動とは本質的に異なる。それは作為的な自由の剥奪である。ぼんやりと広がった電子雲のようなアイデンティティの自由を、コントロールしたいだけの他人が制限する行為だ。
 もちろん自分を言語化するのは必要なプロセスではある。人間は社会に観測される度、その要請に応じて自分を規定する。思春期はまだ自己の確率振幅が大きく、その時ではないはずだ。健全な自己の確立は適切なタイミングで適切に観測されることによって徐々に達成されるものであって、SNSや周囲の影響によって一息に達成されるものではない。
 これについては最近はやっているMBTIやもっと学問的な精神分析でも同様の事自体は言える気がする。
 というか、現実の大抵の問は解析的に解けるものではなく、ヒューリスティックな問題であり、一息に解を出せるようなものではない。人生にもテニスにも逆転ホームランなどなく、単一のプロセスで到達する場所などたかが知れている。大抵の場合、学習率を適切に設定し、適切な回数反復することが大切だと思う。
 外的要因、例えば役割や他者の評価、そういったものは優先されるべきものではない。内側から出てくるものを適切に成形すべきであって、決まった型に流し込むことを教育とは呼ばないと思う。

 そして、一度言葉を付けてしまえば、その精密さに関わらず力を持ってしまうものだ。日本では古来より言霊という思想があり、それは言葉がいかに力を持つかを表す。僕はnoteではこうして雄弁に言葉を紡ぐが、自分から出る言葉がいつも恐ろしく、現実ではおにぎりの具材でしか会話をしない。エコーチェンバー現象は言葉のアンプであり、それはまるで結晶が成長するように、小さな種から大きな「何か」を生み出す。本の中で紹介されている医師による肯定ケアは、専門家による強力なエコーチェンバーだとしか思えなかった。

まとめ

 ちょっと纏まらなくなってきたので結論付けて投稿させてください…
 自己形成の過程において、言葉は気を付けて扱わないといけない。子供は無数の可能性が重なった状態であり、外から与えられる役割や言葉は簡単に可能性を規定すると思う。個性とは子供の中から自然に表出するものであって、必要に応じて外からの観測に晒されることはあれど外から規定されるものではない。そして一度つけられてしまった言葉は強力な力を持ちうる。

 大人である僕もまた自分を規定する言葉は丁寧に吐く必要があると思う。規定する前に自分を見つめること。そして外から借りた言葉や役割ではなく、自分の中で理解して分解して再構築した自分の言葉で丁寧に表現すること。気をつけていきたいものだ。

 ここまで、再構成が不十分な拙文を読んでくれた人がもしいれば。僕を観測してくれて、本当にありがとう!


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