子供、あるいは人生

 もうすぐ子が生まれる。子が生まれるにあたって気持ちを保存しておこうかと思うのだが、何をどう書くか悩んでいる。散文になると思うが、お付き合いいただけると嬉しい。また、一部偏った考えが出てきうるが、個人の意見だと思って寛大に許していただけるとありがたい。

 人生には種々なイベントがあるが、「子を為す」ことは一番のイベントだと言って良いと思う。結婚や出産ばかりが人生ではないという言説の多い昨今であり、私もそれらに縛られない生き方も肯定する。しかし、自分と同じ種族の子孫を残すということが生物的、社会的に重要な意味を持つことは明白だと思う。


 子供を作ることについて、私は臆病だった。なぜなら、自分の人生を肯定できている時間がそう長くはなかったからだ。自己否定と自己嫌悪の中のたうち回る時間も僕の人生にはあり、子供にそんな思いをさせる可能性があるという思いを拭いきれずにいた。結婚した頃からそういったネガティブは随分マシになったが、自分が救われたからといって子供が救われるとは限らない。

 ただ、これに関しては考えるだけ無駄だと思う。子供は自分の似姿でありながら、自分とは全く異なる存在だ。君が僕と同じように生きる必要も必然性もない。僕にできることは君を愛することだけで、そこからどう生きるかは君次第だ。僕にできるのは、君が望まれてこの世に生を受けたことを、この世界には絶対に安全な君の居場所があることを、この世界には君を愛する人間がいることを、ただ言葉ではなく行動を持って君に伝えることだけであって、そこからどう生きるかは君次第だからだ。


 子は母体と羊水に囲まれた安全な環境から外に出てくる。まずすべきことは、外にも安全な場所があるということを伝えることだと思う。それが家庭であり、かつて僕が願った外界と適切な距離を保った閉じた楽園だ。家庭はそれぞれ宗教だというのが僕と妻の共通了解だが、我が家の宗教は子にとって適切だろうか?適切にできるだろうか?

 家庭はミームのアウフヘーベンによって進化する存在だと思う。僕らは両親の生き方を初めに模倣して、他の、特に配偶者の生き方と突き合わせて改善し、より良い生き方を持った家庭を作る。だから子のために家庭を省みるとき、その内省は自分の人生そのものが対象となる。だからこのnoteのタイトルは「子供、あるいは人生」なのだ。

 抽象論ばかりでうんざりしていたのでこのあたりにしておきたい。要は、いつだって省みることをやめず、常に君にとって必要なもの、君が欲するものを考えて変化し続ける必要があるという話だ。


 こういうのを書くと毎度思うことだが、綺麗な概念論では何も始まらない。もうすぐおむつ替えや夜泣きに対応する日々が始まり、こんなnoteには大した価値がなくなるに違いない。

 だから最後に一言だけ。

 ようこそ。僕は全力で君を歓迎する。

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