noteハードル下げ散文

 しばらく書かないとめちゃくちゃ自分の中で面倒になっちゃうんすよね。でもやっぱり文章書かねえと漫然と生きてる感強いっすね。書きましょう。

 GWが終わっていきますね。長めの休みは余計なことばかり考えてしまってもしかしたら苦手かもしれないんですが、でもやっぱり大好きです。思えば大学の頃から休みになってやることがなくなると、無目的な生が浮き彫りになるようでよく精神を病んだものです。今回は短いのもあるんですが、少しマシだった気はします。そこには自分に対する暖かい諦観がどこかにあるのかもしれないです。病み倒していた自分はきっと自分の可能性を過大に幻視していて、現実との乖離に身を割いていたんだと思います。今の僕はそういう感情が落ち着いてきているんでしょうね。精神の老いを感じます。

 世界の片隅で小市民として生きることはいつかどん底に落ちた自分が暫定的に出した答えだったはずです。少し働いてみましたが、その指針は今も自分が取るべきものに感じます。きっと今すべきことはその指針の精度を上げて、ささやかな楽園への道を切り開くことなんだと思います。今の職場でずっと働くのか、みたいなこともそろそろ考えなきゃなぁと思います。

 こういう言い方をするとアレなんですけど、今の職場はちゃんとすることを求められる感じが時々しんどいですね。本当はふわっと仕事がしたい。いや文字にしたら当然ワガママで、自分にそのワガママを通すだけの何かがあるかは微妙なんですけど。ないですか、IT系でホワイトにふわっと仕事できるとこ。

 年相応の大人になる、なんてことも、そういえばどん底に落ちた僕が立てた指標の一つでした。そっちについては今は微妙ですね。当時自分が想像した「大人」はステレオタイプ的で、大きな変化を想定してそういう言葉を放っていた気がします。けれど昔から言ってたことですが、人間は簡単には変われないですし、もはや根本を変えようなんて考える必要もないと思います。変わったように見えるのは別の側面が見えたとか、背景を変えたからとか、そういう錯覚の類なんだと思います。

 僕はもうきっと、あまり大きくは変わらない。嫌というほど見つめた自分に新しい面がまだあるのかは分からないですが、少なくともこんな面があるはずだなどと言って指針を決めるべきではないでしょう。僕はこのまま大人になって、少しずつ変わりながら、それでも根っこはそのままで生きていくに違いありません。そして、それを受け入れる必要がある。

 そうは言いながら、少しずつ変わっていくんでしょうね。指にタコができるように、よく圧がかかる部分は分厚くなって、僕の柔らかい部分を守ってくれるでしょう。だけどその分固くて偏屈な部分が多くなって、人に疎まれるかもしれません。怠惰な僕にムチを打って、また細かい行動方針を考えなきゃいけないでしょうね。GWももう普通の休日分しかなくなってから何いってんだこいつ…

 飽きました。今日はタイトルからハードル下げたおしてますしこんなもんでいいでしょう。また仕事が始まりますね。こないだ同僚に仕事の中にも休暇の中にも本当にやりたいことなんてないかもしれんみたいなメンヘラかましたところ、みんなそうじゃない?と言われてしまいました。かもしれないですね。また日常を続けながら、些細な楽しみを集めて生きられたらいいなって思います。
 仕事始まったらまた病むんだろうなぁ…そこそこ見えてるんですよね、多分病むの。また慰めてあげてください。

 ではまた。次回も適当な散文でお会いしましょう。

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