大学院中退ノート

自己紹介

 おはよう、こんにちは、こんばんは。このnoteに足を運んでいただいてありがとうございます。はじめに自己紹介をいたします。僕はかずあきと申します。XXXX年3月に東京大学X学部を卒業後、同学科の別研究室に院進するも、半年で学校に行かなくなりました。その後2ヶ月の引きこもりを経て就活し、来年度より就職します。最近までフリーターをやっていましたが現在はニートです。こんなもんでいいですかね。
 今回筆を執ろうと思ったのは、大学院でちょっとダメになってしまった経験を、自分のために文章にして記録し、整理しておこうと思ったためです。また、それをクローズにするよりは衆目に晒した方が建設的だろうと考えこのように公開することにいたしました。ご意見等ある方は、僕の目に見える形で表現していただけると非常にありがたいです。

 思うに、このnoteが真に建設的なものであるためには、自らの後悔がどこにあるのかを明示することこそ最重要事項であるかと思います。そこで、初めに僕がこの道に至った岐路のお話をさせていただこうかと思います。ここに至る選択として主要なものは、大学入学、進学振り分け、院進ってところでしょうか。では、順に見ていきます。

大学入学

 初めに大学入学ですが、ここにはさほどの後悔はありません。後悔を持つほど他の選択肢を見ていなかったのはあるかもしれません。当時、ある程度の進学校で学校の成績だけはよく、特にやりたいことも決まっていない僕は、当然のように東大の選択をしていました。そういえば入試の話のnoteを書いた東大の方もいらっしゃいましたね。僕の場合は整った環境がありましたので、他の方と比べるとさして苦労していないかと思います。ただ、その境遇がよかったかと言われると難しいところです。後述しますが、努力下手で実務能力はそれほど高くないのに、なまじペーパーテストが出来たがために不相応な環境に身を置いて、劣等感で潰れかけたりしていますので。

進学振り分け

 次に進学振り分けの話をしましょう。ここには少々後悔があるようには思います。ご存知ない方に少々ご説明いたしますと、東大の1年真ん中にある、教養からどの学科に進学するかを決めるイベントです。詳しくは調べてください。僕は大学入試の時と同じように、自分が持っている点数を見て、その近辺に手頃な学科がないかを探しました。選択の詳細は省きます。ここにはリサーチを怠った後悔が確かにあります。選択を先に延ばす悪癖があり、考える時間が少なかったです。ただ、学科で学習した内容への後悔はさほどないので運は良かったのでしょう。どちらかといえば、ほぼこの選択の時点で学部就職の道が断たれたことには少し後悔があるように思われます。ただこの時点でなんとかするのは難しかったでしょうね。今考えても仕方ないかと思います。

4年、院試


 4年次、研究室で僕は自らの無能に気付いてしまいました。僕のモチベーションと実務能力は周囲に比べ数段劣っていました。今でこそ世間一般で見ればまあ実務能力は真ん中らへんやろと思ってますが、当時はもっと自己評価低かったです。ペーパーテストと実務で要求される能力の違いは、自ら主体的に情報をざっくり集め選別する過程や、とりあえず手を動かしつつ定期的に確認を行い軌道修正する過程等にあります。僕にはそれが出来なかった。決まった手順のない作業において、考える必要のないことを考え、考える必要のあることに集中できなかった。僕は向いてないと思いました。この優秀な人々が進むべきレールから飛び降りたいとばかり考えていました。そう思った4年の前半が終わるころ、少なくとも僕の目には、学部就職の道は閉ざされていました。学部の授業があった頃から、誰も学部就職を考える人間など周囲にはいませんでした。そういう学科に来てしまったのです、主体性の低い僕が学部就職を視野に入れ、実行できるはずもありませんでした。
 4年の真ん中、院進の選択がありました。僕は底点の低い隣の学科に行けば少しは不真面目な人がいて気が楽だろうとか、そっちの内容の方が実際に手を動かす研究から遠そうとか、結局その程度の理由だろうと思うのですが、隣の学科の院試を受けることも考えている旨教授に伝えました。教授室に呼ばれた僕は理由を問われ、黙ったような気がします。浅い理由しかないのですから、黙するほかありませんでした。将来なにになりたいか問われ、僕は普通のサラリーマンになりたいだとか、平凡なデスクワークがしたいだとか、そんな内容を話したような気がします。教授はここまで来たんだから特別な何かになる他に道はないと言いました。絶望しました。僕は非凡になるべき居場所にいながら、非凡にはなれない無能でした。どこにも行くべき場所はないように感じました。
 7月、院試休みに入り、僕はなにもしたくなくなりました。今の研究室で修士号を取れる気がせず、願書を出す気にもなりません。願書締め切りまでの二週間、僕はひたすら引きこもって小説家になろうでリゼロを読んでいました。あれ、小説とんでもない分量あるんですよね。起きたら寝落ちするまでスマホで読んで、寝落ちで一日を終えました。絶望の中で自分が腐っていくのを感じました。結局、現状をどうにかする意志を持てずに、そのままの研究室に願書を出しました。
 7月の末から、紛いなりにも勉強を始めました。驚いたのですが、勉強に身が入るとそんな状況でも結構楽しいんですよね。知らないことを知るのは面倒ですが楽しいです。他に選択肢がないまま自分がやって行けると思えない選択をすることだけがただただ不安でした。勉強をしている間はそれを忘れていられるのでよかったのだと思います。
 8月の末、院試は面接の成績が悪く、第一志望に出した4年次の研究室に落ち、第二志望の研究室に決まりました。今思い返すと、僕のモチベーションの低さが見抜かれていたのだと思います。そして、僕が落ちて良かったと、今では心より感じます。僕が狭い枠を取らなくて良かった。他の同期が全員上がれて良かった。これを強がりと見られるのは仕方ないかと思いますのでご自由にしてください。ただ僕は今心よりそう思える。僕がそのときに感じた負の感情は、試験の点数で周囲に負けた一点に尽きました。僕は院進がしたいわけではなく、ただ勉強し、試験で好成績を残すためだけに院試を受けたのだと気付きました。ここにはたいした目標もないのに、ペーパーテストでさして努力せず上位にいられた僕の、それゆえの過ちがあったのだと思います。僕は今までの生き方を捨て、全て擲って院進をしない選択肢を選べませんでした。試験という得意な土俵に拘泥し、惰性でレールを進むことしかできませんでした。僕は第二志望の研究室へ進学することになります。
 4年の後半研究をして卒業しました。引き続き自分の無能を思い知らされました。優秀な人の多い学科で、手際も要領も周囲に遠く及ばない僕は、先輩と助教の先生におんぶにだっこで大学を卒業します。今でも彼らには非常に感謝しています。同時になまじそこに強烈な罪悪感を今でも感じています。この罪悪感はこの後にも出てくる感情ですが、僕の精神の美徳でもあり、弱いところでもあるのだと思います。

院進、そして


 院の研究室は別キャンパスの、規模の小さい研究室でした。時間等の制約もゆるく、晩御飯は家で食べる事ができ、週休が二日ありました。多くの場合にあることですが、閉塞においては新しい環境が無条件に一筋の光のように感じられます。僕もそうでした。その自由な研究環境で、劣等感に潰された研究意欲が復活するのではないかと期待しました。自らの意思で研究を自由に進めていけるんじゃないかと思いました。しかし、「研究」に対する興味を概ね失った人間にとって、新しいものであろうが研究室が救いになるはずがありませんでした。むしろ制約を受けない事で次第にサボりを繰り返すようになりました。とうとう雑誌会(論文を複数読みある分野についてまとめて発表する研究会)の前日の夜、どうして自分が作業をしなければならないのか理由を見失い、そこからついに研究室に行かなくなりました。

引きこもり


 そして、去年の10月と11月の二ヶ月間、引きこもりになりました。今思い返しても何も思い出せません。虚無です。とにかく毎日、何かを考える事が怖くて、スマホを手に取りゲームや漫画や動画、あるいは据え置き機でのゲームを、ひたすらしていました。最新のゼルダをやったのは確かこの時期でした。コンテンツが途切れると自分の現状に向き合わなければならず、その十字架に耐えられるほど強くなかった僕は、ひたすら絶える事なくスマホを握っていました。罪悪感を、周囲に対する劣等感を、将来への不安を、膨れ上がった負の感情全てを、ひたすらに薄めて薄めて一日をやり過ごしていました。スマホの画面を見ていない時間が、そこで顔を出す現実と孤独が怖くて仕方がなかった。弱さに向き合うことすらできない弱さに絶望し、ただひたすら感情を失ってゆっくり腐っていきました。辛いことも楽しいこともほとんどありませんでした。布団に入って目をつむると静寂の中不要な思考ばかりが空転するので、寝落ちするまで毎日眠りませんでした。生活リズムは崩壊し、朝7時に寝て夕方16時におき、夜22時に一日一回の食事を摂っていました。あの日々は、ともすれば年単位で続いたかもしれないと、今思うとゾッとします。精神科に通ってはいましたが、そのために家を出ることもままなりませんでした。おしまいでした。僕は人間ではない何かになってしまったんだと確信していました。

脱却


 何もしない時間はなにも産まないですが、負の感情を薄めることだけはできたように思います。走っている車も、アクセルもブレーキも踏まないでいれば自然に止まります。時間は人の気持ちをゼロに戻そうとします。負の感情を強く持っていた僕にとって、それは非常にありがたかった。当時自分から誰かに連絡を取れるほど精神状態が良くなかったのですが、二人の友人が外に連れ出してくれたり飯を食ってくれたりしてくれて、ようやく薄まった感情がいい方向に持ち直しました。彼らには感謝しかありません。12月の頭、僕は引きこもりをやめました。


 当時書いた文章が残っていたのでそのままあげておきます。これは僕が研究室を去る際に教授に宛てたメールの内容の抜粋です。

僕が東大の大学院まで来た駆動力はほぼ惰性でした。
理由が特にあるわけではなく、自分がその時に持っていた「点数」に近いいくつかの選択肢の中から、一種気分のようなもので考えなしに飛び込む場所を選んできました。
今思うとそれは選択ではなく、選択の先送りでしかなかったのだと思います。
これまでの努力は、先送りを続け、日々を継続するためにつぎ込んできました。
そうして選んできたがために、いざ一生を決める選択が間近に迫ってきて、僕は何になりたいのかわからず、努力する理由を失いました。
選択肢をこぼさないよう先送りにしてきたはずなのに、院卒の先にあるアカデミアの道、大手企業への就職、夢も野心も持ち合わせずに歩んできた僕にはどちらもたいして魅力的に見えませんでした。
そうして立ち止まってしまったのだと思います。
そうしてしばらく立ち止まって吹っ切れて、今は未練も切れました。
大卒として院卒する同期の就職と同じタイミングで就職できるよう、活動していきたいと思います。
研究室の方々にはよくしていただき、研究室側に何の落ち度もありません。
にもかかわらず、上述のような個人的な理由で休学し、義務と責任を放棄することを非常に申し訳なく思います。

 モチベーションの薄さをはっきり自覚して、僕はようやく先送りをやめたいと考えました。僕の持つ未来の選択肢を吟味し、一つを選びとろうとようやく思えました。実際にはそれほど高尚なことは未だ何もできていないのですが。

後悔

 さて、僕がこれまでとってきた選択の話をしてきました。僕の最大の後悔は、選択を伸ばしてしまったことにあります。それは特に4年次に入ってからの話に顕著です。僕は研究室で周囲のように「優秀な研究者」になる才能もモチベーションも持っていないことに薄々気付いていながら、敷かれたレールから飛び降りたいと願いながら、そうする度胸もなく鉛のような足取りでレールの上を歩んでしまいました。ここに関して言えば、「大学の制度上、研究が向いていないと気付いた時点では学部就職には遅く、また学科によっては就職の道が細い」という問題はある気がします。もちろん当人の認識不足や努力不足と言われればそれまでですし、僕自身は自分に対してそう思っていますが。でもこの制度に関してはどうにもならんよなぁと思わなくもないです。進振り後に専門を全て修了しなければならない都合上、学科によっては学部就職という進路を検討するほど時間的、精神的な余裕はありません。少なくとも怠惰で意志薄弱な僕にとってはそうでした。我が身を省みるならば、疑問が浮かんだ時点で早いうちに、自分で相談窓口を見つけて早々に対処しておくべきだったような気はします。人に相談して客観的な意見を乞う必要はあったと思います。そうすれば少なくとも独りでここまで堕ちることはなかったでしょう。

 少しだけ余談を。後悔と言葉にはしていますが、僕はそこまで自分の選択を悔やんでいないような気はしなくもないです。周囲の人間には本当に恵まれ、そのおかげで今の自分、ひいてはそこに至る選択の数々を肯定してしまっているんでしょう。別の選択をすればきっと別の素敵な人と巡り合っているんでしょうが、そんなこと全く気にならないんですから不思議です。かつての日本では、「絆」は足枷や手枷を意味し、特に仏門を叩くにあたって交友は自由の枷であったと聞いたことがあります。僕もそうなのだと思います。彼らとの間にある温かい鎖が、僕が倒れそうな時には倒れることを許さないのでしょう。それを断ち切るべき目的や目標に縁遠い人間ですので、僕は死ぬまでそれをジャラジャラ鳴らして生きていくつもりです。付き合ってくれる方がいれば、一緒に鎖ジャラジャラいわせましょう。大勢で鎖まみれになると最高やで。早く鎖まみれになろうや。

その後

 メインはここまでですが、後日談的にその後の話を追記しておきます。

 そこからはリハビリのように大学の図書館で本を読んだりPCで作業をする生活を続け、3月より、就活をしました。そこに関しては今回の本論とさして関係がないので少なめにしておきますが、惨憺たるものであったのは間違いありません。復帰し始めた程度の僕には社会に入るにあたってのこのイニシエーションに耐えうる精神はありませんでした。不要な口を挟んで就活生を苦しめるばかりの大手就職仲介業者だとか、やる気も興味も出ない業界研究だとか、存在しないモチベーションをでっち上げることへの苦痛だとか、自分の人生の怠惰に向き合う苦痛などで眠れずに面接や説明会をサボるなど日常茶飯事でした。希死念慮を持って説明会に挑むこともしばしばでした。友人に助けられながら、最終的には大卒でIT系の会社に内定が決まり、この4月から働きます。最終的に多少名の知れた企業の内定をもらったのは、幸運以外のなにものでもありません。つくづく悪運だけはいい人間です。結局業界を変えただけで名の知れた企業に就職するならレールを飛び降りることなんてできていないんじゃないかという懸念もあります。未知の業界に無条件の希望を持つことはもう僕にはできません。きっと同じように無能と向き合う日々は待っているのでしょう。未知の業界に飛び込んで、一体僕はどこへいくんでしょうか。
 新年になったら退学願を出しに行くつもりです。未来の話は出来ませんが、今のところ会社に関しては不安8期待2みたいな感覚です。アルバイトで社会復帰準備をする前は不安6絶望4くらいだったので本当にマシになりました。やっていけたり、やっていけなかったりしながら、それでも這いつくばって生きていきたいものです。

あとがき

 やや推敲不十分気味で、稚拙な文章で申し訳ございません。ここまで読んでいただいてありがとうございます。感想等ございましたら僕の目につくよう教えていただけると助かります。研究室に出したメールとか原文のままにしておくの不安なのでなんかあったら消すかもしれません。ご質問等あればTwitterなりそこに載せてる質問箱なりでおなしゃす。noteの使い方も微妙ですまんやで。それでは、みなさん元気にやっていきましょうね。

追記(2023/06/24)

 今更ながらちょっとだけ個人情報を隠しました。あんま意味ない気もしますけど一応ね。

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