親子

 親子関係は多くの場合一番最初に結ぶ人間関係であって、多くの場合一番長く続く人間関係だ。多くの場合そこから他者との関係の多くを学ぶし、その関係によって性格は形成される。子としてはや四半世紀を生き、子が出来る友人も出てくるような歳になった。

 今の時点で親子について思うことを文章にしておこうと思う。

子として

 初めに、子として親という存在をどう思うか、という話をする。子として過ごしたこれまでの人生に、友人やSNSで聞く伝聞を少し加えて書く。そのため、自分の視点にかなり寄ったものになることは承知してほしい。

 生まれて物心がつくまで、親は神や預言者に近い存在なんだと思う。親が絶対的に正しいと信じ込むし、その言葉は聖書の一文に等しい。他の人間を知らない幼子は相対化も懐疑もやり方を知らない。

 彼はいつか親がただの人間であることを知る。親の言葉に矛盾を感じたときなのか、親が自分のかつての夢を子供に托卵したことに気付いたときなのか、重大な過ちを犯したときなのか。人によってもまちまちだろうし、酷い親元の人は物心がつく頃には理解しているのかもしれない。

 少なくとも現代日本では、そこが一人の人間になるためのスタートラインなのだと思う。絶対的な存在を失い、あらゆるものを相対化出来るようになり、懐疑できるようになる。なってしまうと言い換えてもいい、それは楽園の追放に近い悲劇だから。この辺りの事情が宗教文化の根強い国では異なるのだろうかなどと思いを馳せつつも、知らないので特に何も書かないでおく。

 ここに書いた内容は僕自身が強く感じたことであって、エディプス・コンプレックスだの発育上のステップの話だのの教育心理等の理論との整合などは勉強不足で全くわからない。興味はありつつ多分中々勉強もしないんだろうなぁと思う。ちゃんと知りたい人はそういう書籍とか読むといいのかもしれない。僕もいつか強烈に知りたくなったら読む…

親として

 親として、とは書いたが、別に親にはなっていないし今のところなる予定もない。ただそういう年齢として子を産み育てることについて思うところをまとめるだけのフィクションだと思ってもらえればいい。

 まず、マクロな視点の話をする。僕の暴論の一つに、「子を2人作れば個人としての生きる意味は人間社会の存在意義に還元される」というのがある。これは配偶者と二人の子を作れば生命収支が合うという話だ。ひいては、「人間社会の存在意義」が存在するならば、その維持に対して果たした一人分の責務は自分の存在した意味の一つになる。
 端から言っている通り、これは暴論だ。情緒もへったくれもない算数であり、単純化も平均化も度が過ぎている。それでもマクロな視点としてこういう発想を検討してみるのは意味のあることだと考えている。

 次に、ミクロの視点の話をする。僕は精神的に苦しむことが多く、人生に対して手放しで肯定的な人間ではない。むしろ、ペシミストとまではいかなくともネガティブな言葉を吐くことが多い。どこか人生をポジティブに捉えられないと子を作るべきではないんじゃないかという思いがある。

 上でも少し触れたが、親は子に自分の夢を托卵すべきではないと思う。子には子の人格があり別の人間だあって、その可能性は決して親が規定するものではない。
 一方で、親が子の将来の見通しに対して無責任でいるわけにはいかない。親はしばらく子に全てを与える存在だし、子が自ら歩むようになろうとこの世に産み落とした事実は変わらない。子が人生の苦しみ全ての原因を親に求めたとき、それは違うと自信を持って言えるだろうか?

 こう考えると、下のようになる。自分が人生に苦しみを抱えているのに、子に苦しみのない人生を托卵することは出来ない。そして子の苦しみに対して、この世に産み落とした分の責任は背負う必要がある。最近ペシミズムだの半出生主義だのの本を読んでおりそちらに流れそうになるが、要はこれを理解して背負うなら別に問題はないんだろうと思う。

 結論として、親になることを想像するとミクロの視点では責任を感じるため躊躇う部分があるし、マクロの視点では社会維持に貢献して自分の荷物を減らせる。ただ結局のところネガティブに落ちるのならば、マクロ視点でも社会維持という悪に加担する行為以外の何者でもないとは思うけれど。

 正直ここまで色々書いたけど、多分ここまでの内容は全部考えずに子供を作る方がいいんだろうなとは思う。友人たちはぜひ子供を作って俺に祝わせてほしい。よろしく。


 教育論等までちゃんと射程に入れると文章が終わらないので短めに。きっと子の仕事は選択肢を増やしてからその中から一つを選び取るという一般的な意思決定のプロセスでしかない。あとは遊べばいいはずだし、なんなら遊びは選択肢を増やす行為でもあり仕事でもあるんだと思う。

 そして、親がすべきはそれを主導することではなく、手伝うことだと思う。様々な経験をさせて多くの選択肢を見せること。選択肢を大きく失う選択に警鐘を鳴らすこと。選択の仕方を教え、健全な選択を保証すること。実際には口で言うような簡単な道では決してなく、複雑で何も見えない道筋なのだろう。時には親が先陣を切って選択肢を潰す必要があったり、強制介入が必要な事態も珍しくはないんだと思う。今の僕にはこういう軽い言葉しか吐けないけれど、「教育」は極めて重要な意味を持つ重大事だと思う。


 ここまでの自分が親になるフィクションへの感想とは別で、自分の経験から親の気持ちを少し推察してみたりもした。未だに実家に帰ると自分は子として扱われるし、当然ではあるんだと思う。そして同時に、親と子では時間の流れに大きな差があるのだろうと思う。身体的にも肉体的にも日々成長する子の隣で、親はそこまで大きく変わらずに生きていくんだと思う。きっとそのギャップは気を付けたって日々開いていくし、開いていっていいものだろうとも思う。

終わりに

 なんやこの文章、何が言いたいか全然わからん…公開したくない…やだ………

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?