擬態

 眠れないので少しだけ。もしかしたら以前のノートと被ってるかも。なんで今これを書いてるのかよくわからんけど頭に浮かんだので…

 最近はほぼ思わなくなったけれど、就職前の引きこもりの時期、自分が「人間」の擬態だと感じる機会が昔は多々あった。僕は「人間もどき」であって別種の生き物であって、彼らと同じように生きることは出来ないんじゃないかと思っていた。

 自信のなさ、当事者意識の欠如、怠惰、夢や目的意識の希薄さ、モラトリアムへの甘え。僕の中のあらゆる要素が社会の中で自分を位置づけることを拒み、役割を割り振ろうと思えなかった。先に進もうとする同級生を見ては、彼我の断絶に絶望し、「人間もどき」として自分を隔離して守るしかなかったんだろう。


 実際には、「人間」は大それたものではない。清く正しく生きる人間が1人いれば、その数倍は濁った正しさを清いと言い張って生きる人間がいる。力強く周囲を巻き込み何かを変える人間が1人いれば、その数倍は流れに身を任せて何となく生きる人間がいる。世の中には本当に様々な人間がいて、当たり前の話だが、君はその中のどこかに必ず位置づけられる。

 リモートの時代にあって、こう感じる人間は増えるんじゃないかとも少し思う。リモート会議に失敗して醜態を晒す愉快な人間は今やそう多くはなく、繕うのはそれほど難しいことではない。弱みを積極的に見せたい人は少なく、僕らは人の弱さに触れにくくなった。

 少年は親が自分と大差ない存在であることを知り、絶対的な存在だった親を相対化して青年になる。青年は「人間」を相対化して大人になるのだ。隣のデスクで寝ている先輩を見たとき、口先ばかりの上司が部下をこき使う姿を見たとき、定年間際の社員が古いやり方に固執するのを見たとき、僕らは大人に近づくのだろうと思う。

 僕はきっと大人になりつつあるのだろう。「人間」の中に自分を位置付けた上で、その中のどこに自分を位置付けていくのか。適所を探す旅はまだ始まったばかりなのだろう。

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 この程度の文章なのにあとがき。なんか書きながら発見があったのでちょっと整合とか怪しいかも。というか文章にするのやっぱいいからもっとなんか書けよ…
 それから寝てる先輩云々の件はフィクションということで何卒。

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