当たり判定

 昨日、姉とLINEで好きなことの話をした。姉は好きなことを発信して好きなことのために努力すれば、やりたい仕事もついてくると話した。それに対して、僕は自分の好きなことは弱点であり、それを晒して生きることは難しい旨話したが、姉はそう考えたことがないと言っていた。また、受け入れてくれる人間はどこかにいるのだから、そこで相容れない人間は切り離せばいいと話していた。

 その言はあまりにもポジティブで、僕は少し自分の考えを話してみたものの、姉の人生に僕の話は一切の意味はなさないと感じた。僕の考え方はあまりにも後ろ向きな姿勢から始まっていて、前しか向いたことがない人間には理解もできず必要でもない。いや、誰にとってもきっと必要ではないと思う。ただそれは苦しんで生きる人間に対して共感の慰めをもたらすためのガラクタなんだと思う。

 僕がこうも後ろ向きな捉え方をしているのは、恐らく精神的な当たり判定が広いからだと思う。当たり判定といえば、ゲームで攻撃が当たってダメージが入る範囲のことだ。現実の物理的な当たり判定は見たまま体の範疇であることは当然だけれども、精神的な当たり判定は人によって異なるように思う。そして、僕はそれが平均よりおそらくかなり広い。

 幼少期の僕にとって、好きなことを否定されることは自分を否定されることにすら繋がりかねない一大事だった。だからそれは自分の中に大切に包み込み守るべきものであって、周囲に対して主張するものではなかった。そこは致命傷の当たり判定の範囲だったのだ。

 ほんの数度だが、家族に自分の趣向を否定されたと感じたことがある。いや、そもそも否定されたと言えるほどの話ではない。覚えているのは、チャンネル争いの最中に親に自分の見たい番組を下らないと言われた時、隠れてオタクをやっていた頃に姉が一般論としてオタクへの嫌悪感を口にしたときだ。

 どちらも振り返れば僕個人への攻撃の要素など一つもない。だけれども、今でも記憶に残っている程度には印象に残る思い出なのだろう。前者は個人の感想の範疇で話されただけだし、後者は一般論であって僕個人への攻撃ですらなかった。それでも、当たり判定の広い僕はそれらによってダメージを受け、記憶に焼き付けてしまったのだろう。

 あまり現在の自分の原因を過去に求めても仕方ないと思うし、またそれを恨んでも仕方ないと思う。だけれども、思ってしまうものは仕方がない。僕だってきっと繊細な誰かの心を傷付けて生きているだろうと思う。今は上に書いたほど繊細な人間をやっていないしむしろそうやって腫れ物を扱うみたいに見られるのは心底嫌なのだけれど、未だにそういった繊細さが自分の中に眠っている気がして恐ろしくは思う。

 なんとなく最近思ったことを書き連ねたけれど、結論は何だったのだろう?結論なんてなくてもいいか。意味や理由を求め、結論を急ぐのは現代人の美徳であり悪徳だろう。そんな言にも大して意味もない。最近書いてなかったが、また気が向けば意味のない文章を徒然なるままに書こうと思う。

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