ブルーピリオド 1巻

 ブルーピリオドにどハマリしたからブルーピリオドの話をする。基本自分の考えや感想の話であまりネタバレにならないとは思うが、特に配慮はしないので悪しからず。というか読んでないなら全員読め。全員熟読した上でYOASOBIの群青を聞いてクソデカ感情に溺れろ。

 1巻ごとにみっちり語ることがあるので、巻ごとに記事書く予定。限界オタクの雄叫びをぜひ聞いてくれ。ここからは全て早口でお送りします。

以下ネタバレあり









 では本編、1巻の話。主人公が絵の道に飛び込む最重要な転機、始まりの巻。まずは主人公の話からしていく。

 主人公の名前は矢口八虎。あまり雑に語りたくは無いけれど、器用で努力家で不良。これは他の登場人物にも言えることだけれど、分かりやすさを重視してステレオタイプに従ってキャラを作るとおそらくこうはならない。属性自体はあまりマッチしないようでいて、その実それぞれ人物として極めて自然に成立している。恐らく作者が人間を「知り」、「わかって」いるからこういう多面的で魅力的な人物をかけるのだろうと思う。
 八虎が絵の道に入るきっかけとなるユカちゃんも同様にとても魅力的な人物だが、後の巻で語る機会があるかと思うので一度省略する。ちなみに僕が好きなキャラは男だと八虎、女だとモモちゃんあたりかな。モモちゃんあんまり深掘されてなくて話してきた多面性には合わないけれど。

 最新刊まで読んだあとに1巻を読み返してみると、後のテーマとなる話の一端がいくつか見つかる。そして、この作品中に出てくるそれぞれのテーマは深く刺さる芯を食ったものばかりで、丁寧に考えられて描かれている。おそらく作者は最初から描きたいテーマがいくつかあり、それを展開やキャラクターといったモチーフに載せているのだろう。
 そういった目線ではメタ的に漫画自体も作中の創作に対応している。過度にメタ的な目線で見ると物語を純粋に楽しめなくなる危険もあるが、こうした視点を提供してくれるのもこの作品のいいところだ。

 八虎は器用でよく気を使う。八虎は特にそうではあれど、現代人は大抵そういう部分があり、それは人間関係を円滑にすると同時に個人の主張を弱くする。僕自身はあまり器用ではないし気もそこまで使わない方だと思うが、ここまで生きるに当たって最低限は身についており、無意識下ですら他人に気を使って生きている。
 八虎は絵を介して初めて素直に自分の好きなものを語り、それが通じたことに涙するほどの喜びを感じた。口では絶対に語れなかっただろう。彼は喋りながら人の表情を伺うことができ、そしてどれほど努力しても無意識にそうしてしまう人間だからだ。孤独の中でだけ自分の好きなものを形成することができ、それを人と通わせることができた。
 比べるのも烏滸がましい話ではあるが、僕がこうして文章で何かを話すのも根は同じ動機だ。誰しも程度やレベルの差はあれど、自分の本音を結晶にする孤独を必要としているに違いない。それがどれ程稚拙なものであっても、そのプロセス自体は否定しないようにしたいものだ。
 こういった部分については、メタ的に作者にも言えるように僕は感じている。ここまでの物語を紡げ、八虎という空気を読める主人公の内面を精緻に描く作者が空気を読めないとは考えられない。だが、作者は時たま極めて鋭いメッセージを漫画に載せている。1巻の中では、スポーツ観戦に没頭する八虎が「他人の努力」「俺の感動じゃない」と考えるシーンがあるが、これは大衆娯楽であるスポーツ観戦に対して批判に近い疑問を投じているように思う。自分の表現のためには敢えて空気を読まない選択を取れる作者には、変わることができた八虎同様の強さが感じられ、非常に尊敬すべき表現者だと感じる。

 八虎が最後の一歩を踏み出すときの佐伯先生の言葉は僕のド真ん中を貫くような言葉で、1巻で一番話したいことだ。「頑張れない子は好きなことがない子」で、「好きなことをする努力家は最強」だ。僕は基本的に好きなことがなく、頑張れない人間だ。以前のnoteにも書いたが、僕にとって好きなことは弱点で、晒して生きることができず内にばかり埋めてはいつも見つからなくなってきたように感じる。こういった作品を読むたびに、キラキラした登場人物に自分との違いを感じて苦い思いをしてばかりだ。
 正直最近はそういうのが辛くなくなってきた。温い諦めに浸って僕は生きている。好きなことを大切にできず、適性を武器にサボりながら生きている感は否めない。きっと今からでも好きなことを見つけて、「大人の発想」で趣味として楽しめば少しは楽しい人生になるだろう。楽観的に、好きなことを見つけたら大切にできるよう生きていきたいものだ。自分で自分の好きなものの価値を疑う癖をやめろ…

 八虎が美術の道を歩むに当たっての両親の態度にもこの作品の丁寧な描写が出ている。決して両親を「賛成」と「反対」に雑に綺麗に分けることなく、丁寧に描いていると思う。母親については次巻で書くとして、父親の態度は決して「美術の道への賛成」ではなく、「好きなようにやれ」という態度だ。無関心で冷たく、親として十分には思えなかったが、今書き直してみると存外悪くない態度を取っているような気もする。理解できないものに対する大雑把な態度と大まかに取ることができる。また、この父親はスポーツ観戦を趣味としており、他人の努力にしっかり没入して楽しむ人間だ。どこか美術と出会わなかった八虎として見ることもできるのかもしれない。

 絵の道に入った八虎は、努力を重ねて上手くなりながら、より上の存在を知ることになる。無言の絶叫が八虎の中に響き、世田介君を意識するようになるわけだが、ユカちゃんの言う通り、八虎は彼を自分と同じ舞台に載せ、これから競い合うことになる。
 この作品の外には殆ど八虎のような人はほとんどおらず、人は皆意識的にか無意識にか自分と同じ舞台に乗せる人間を極めて狭く限定している。テレビで見る人間に憧れる人間はいれど、悔しいと感じる人はほとんどいない。そうやって仮想的に人間を区分するのは、自分と異なりすぎる人間に触れて尊厳が傷つくのを恐れるからだろう。少し漫画の本筋から逸れるためこのあたりにするが、八虎は世田介君を同じ舞台に上げるという苦しい道を自然に選んだ。八虎を好きなのはおそらくこういう部分で、決めたら楽な道に逃げようとはしないのだ。彼には逃げない強さがあって、素直さを求められる絵の世界で傷つきながらも実直に足掻く。時には誤魔化すこともあるが、誤魔化しが間違っていると感じたら素直に認めて苦しむ。だからいい。

 長くなったが、スッと出さないと多分一生出せないので。また次、この熱量で毎回書けるかわからないけれど。

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