現実と夢想の間に橋をかける虚構について

 お久しぶりです。まーたゲームばっかやって自堕落に生きててなんだかなぁと思いますが、まあでも楽しいし良くない?と思ったり、そう思えてしまえば悪くないんですよね。でも酒には必ず宿酔があるように、どこか依存的にやってしまう類のものにはしっぺ返しがあるような気がします。しっぺ返しが来る前に死ぬならそれでいいという話もあるかもしれませんが、まだ僕はそこまで割り切れないです。安易な流れには適度に逆らって生きていきたいところです。

フィクションに求めるもの

 本題。わかりやすいので最初にお話ししますが、僕は異世界転生モノがあまり好きではないんですよね。なんだかんだ言って読んでしまったりはしますし、一部は普通に好きだったりもしますが。あれの嫌なところって多分断絶なんですよね。現実を捨て去り、異なる理で動く世界での強さに満足する、そういうとこが好きになれない。書いてて気づきましたけど、宗教にも似た一面がある気がしますね。結局のところ現実的な強さを持たない人が、自分が強くいられる価値観で全てをひっくり返しにいく物語なのだと思います。

 僕はそうした断絶なく、現実と夢想の境界を曖昧にし、そこに橋をかけてほしいんですよね。フィクションの飛躍は現実から地続きであってほしい。もしくは初めからフィクションであってほしい。ドラゴンボールやワンピースみたいな冒険譚なんかそうですよね。彼らは最初から僕たちと同じ世界の住人ではない。ああいった作品の登場人物は感情移入の対象ではなく、スポーツ選手とかに近い憧憬の対象なんですよ。

 確かエヴァから葛藤する主人公が生まれたみたいな話でしたっけ。エヴァちゃんと見てないですが、シンジ君なんかは僕らに近い場所から進むので、感情移入しやすいんですよね。彼らが僕らのいる場所から地続きで努力し、勝利する様に僕らは自分を重ね、頑張らなきゃだのと思ったりするわけです。もちろん冒険譚もいい気晴らしにはなると思いますが、その部分の作用の仕方は異なっているように思います。

 どちらでもないから僕は異世界転生モノが好きじゃない。あの作品群の多くは現実から夢想に飛躍し、僕らはそれを辿れない。だからうまく楽しめないんですよね。だったら初めから夢想に生きてくれたらいいのに、変に現実を起点に据えようとするところが気に食わない。

 それから、異世界転生モノって、大抵は見返してやるぞみたいな、強弱の価値観はそのままで強くなろうとするんですよね。革命っていうのは逆転ではなくて上下自体がなくなることであるべきだと思うんですよ。価値観至上主義なので、お前がどこに位置しようが世界観は変わってねえだろと割と思います。

自己肯定感の低さと橋

 現実から夢想に橋をかける虚構を楽しむに当たって、自己肯定感の低さはめちゃくちゃ厄介に思います。現実が低すぎて夢想が遠いんですよね。うまく辿りにくくて仕方ない。ラブコメとか好きでよく読むんですけど、感情移入できる主人公はモテることに違和感があるし、違和感なくモテる主人公には感情移入しきれない。悲しいことですねほんと。

 最近よく読んでた三秋縋って方の小説があるんですけど、あれは僕みたいな自己認識の人間にそこまで違和感なくボーイミーツガールを見せてくれてありがたかったですね。なんでかって、大抵はヒロインがあまりにも特殊で、隅っこで主人公と幸福に至ることにそこまで違和感がないんですよね。多分僕らは街で普通に出会って愛を育む恋愛の話には入り込めないんですよ。

 自己肯定感の低い人間にとって人に好かれることは普通ではないことなので、普通ではないシチュエーションが与えられないと整合が取れないわけです。努力が実ることも、人に好かれて生きることも、僕らにとって普通なことではない。僕はそこそこ恵まれて生きてきた自覚があるのでこの自己認識は心底不思議なのですが、どうやったって夢想に至るまでに特殊なシチュエーションが必要になる気がします。

おわりに

 そういえばずっと僕は僕らって言葉を使ってますね。未だにこういう拗らせ的な部分で周りが仲間だと思ってしまうのは少し悪癖ですね。僕の周りは大多数が僕程拗らせていない人だと思います。一部はまあ僕より拗れてるので、僕が裏切るまではちゃんと仲間でいてくださいね。

 そんな我儘を吐いたところで、まあそろそろでしょ、さようなら。また今度ね。

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