視線

 僕は人の視線を必要以上に気にする人間だと思う。そんなものは定量的に測れるものでもなく、単なる主観以上の何物でもないことではあるけれど。視線への意識と一言にいっても、そこには肯定的な意味も否定的な意味もある。承認欲求を満たし自己肯定感を高める類の「快い」視線もあれば、見られていることで緊張と怯えをもたらす「不快な」視線もある。僕は多くの場合後者の捉え方ばかりしている。

 自分に都合のいい論理は欺瞞である可能性が高く、僕は自分の中に芽生えたそれらを信用しきれない。今から書くのはそういった類の話だ。

 母は自分の選択について、「正解」という言葉をたまに使う。そして、たまに自分の思惑から外れた僕の選択について小言を漏らした。批判というほどのものでもなく、「こうしたほうがいいのに」程度の、ほとんど助言に近いものであったかとは思う。ただそうした細かい小言が僕の性格の一部を作ったんじゃないかとたまに思う。

 「自ら選択をすることは母からの小言を招く可能性があるため避けた方がいい」や、「自分の選択や嗜好を誰かに知られるのが怖い」といった形で、そういった経験を学習して内面化しているような気がたまにする。「居場所がない」といったより大きい範囲での恐怖心は持っていないが、自分の嗜好を否定される可能性を恐れ、自分の選択を否定される可能性に怯えて生きている。

 やはり書いてみても思う。自分の都合のいい解釈であって、自分の弱さを誰かに転嫁しようとしているように感じられる。かなり前から自由に自分を育てることはできたはずだし、自己変革を怠ってきたのは自分だ。それらを含めて幼少期の学びがあるのかもしれないが、それでも僕はそれを肯定できないし、したくない。いや、肯定したくない自分を見せたいだけかもしれない。僕は必要以上に誰かのせいにすること、あるいは必要以上に誰かのせいにする自分を見せることが、僕は嫌いだ。

 ここまでは全て御託である。今や僕の嗜好や選択にとやかく言うような人間はいない。親ほど僕の生き方に対して責任を感じる人間もいないし、無責任に人の生き方を否定するような人も周囲にはいない。少なくとも私は自分の嗜好と選択を誇って生きていられる場所にいることを知っているはずだ。ここでは名実ともに一定の自由が保障されていて、僕はある程度なら好きに生きていいのだ。今すぐにでも俺は変わっていいのだ。

 もっと好きに生きてくれ。誰に見られたってはばからないでくれ。自分の選択と嗜好を開示し、三日坊主でそれらを簡単に捨てたっていいのだ。お前の世界で一番大切なのはお前であって、ひどい迷惑をかけなければ他人も巻き込めばいいのだ。僕はお前に、強く自由に生きてほしいのだ。

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